iwayamarock’s diary

シンガーソングライター、岩山泰輔のその時思ったことを書いていくブログです。

偽りの光に閉ざされたこの世界

今回は、ある種の危機感を感じての投稿なので、前置きなく文章を起こさせていただこうと思います。

ここ数ヵ月間ソロの活動を始めてしばらく経ちますが、その間に感じた「閉塞感」について書きます。

今の社会においては、何かを発信する際「エンターテイメント」であることをなによりも重要視する傾向にあるのではないかと思います。荒い語り口ですが、「誰かを楽しませるためのもの」でなければ表現が許されない、それが暗黙の了解であるような空気感を感じています。

「エンターテイメント」が素晴らしいものであるということは真実だと思います。
人の喜びを作り出し、それによって人の心を奮い立たせ、精一杯生きる日々を応援できるものがこの世界でどれだけの人を救ってきたのか、それはとても尊いものだと思います。

しかし過ぎた薬は毒になるのではないでしょうか。

「事実」「本質」「真理」などというものは、表面上に浮かぶ一つの物事、そこに見える様々な要素から「なぜその物事が起こったのか?」という疑問を経て、多面的多角的に順番に掘り下げていき、見つかるものだと僕は思っています。
その掘り下げの過程において、その掘り下げが誰にとっても手軽なもの、楽しめるものである保証はないし、しかしながらその掘り下げを経てたどり着くことが出来る答えであるからこそ、改めて表面上で起こった物事を見ているだけではわかりえないことがわかる。
そしてその答えがより良い未来やより良い物事を生み出して行くことに繋がるのは良いことなのではないか、と思っています。
まるで毒が時には薬となるように。

しかし、今の社会ではこの掘り下げという行為を行う者から淘汰される、あるいは掘り下げるということを行わせる余裕が持てないほど多くの物事に呑み込まれそうになるという状況が多々あるのではないか、と僕は思います。

掘り下げることによってわかることの多くは楽しさや手軽さといったものからはかけ離れていることが多いのが現実だと思います。
しかしそれを許してもらえない、目の前の手軽さに心奪われたままでは果たして本当に良いのでしょうか?
ずっと健康補助食品だけを食べ食生活を維持している先の未来がどう映るかは明白だと思います。

僕達は今、身近な手軽さという罠に緩やかに首を絞めつけられているのではないでしょうか。
手軽さを重要視する世界が、本質を直視すること、ある種の「本当のこと」を言ってはいけない空気感を醸成している一因なのではないでしょうか。

何が真実で、何が虚構なのかの選択は、決して全てを誰かに委ねるべきものではないと思います。
それは己の運命を誰かに操られる可能性を孕んでいると僕は思います。
物事の真理はいつだってシンプルで一言で言えるようなものだと思いますが、しかしその一言に行き着くまでには、いくつもの問いかけの繰り返しが存在していると思います。
シンプルな一言は安心感と手軽さを持っていますが、その一言が持つ意味をやはり人は考えるべきなのではないでしょうか。

ここに書いたことはあくまで僕の個人の意見であり、世界がそうあるべきなどという意図を持って書いたものではありません。
しかし自己と他者は本質的には平等であると僕は思います。ここにある文章と考えは、僕が確かに持っているものです。


僕が好きな言葉を最後にのせてこの荒い文章の羅列を終えたいと思います。

「言葉を信じるな、言葉の持つ意味を信じるんだ」