iwayamarock’s diary

シンガーソングライター、岩山泰輔のその時思ったことを書いていくブログです。

「型」というものについて最近思うこと

圧倒的花粉。
お洗濯ものにも見えない花粉。
換気に窓をちょっと開けても花粉。
お外にももちろん花粉。
見えない花粉が僕を襲う。

そんなわけで恐らく春です。ご無沙汰してます岩山泰輔です。

今日は最近思う「型」についてちょこっと書き込みをば。




型って最近めっちゃ大事なぁって思うことが多くなりました。
このときはこうする、こうすることが美しい、こうすることはあまりよくない、みたいなそういう型。

剣道とかなら上段と中段と下段を軸に攻めてきましょうねとか(剣道未経験)、そういう型。

カレーはバーモントの甘口だよとか、じゃがいも大きめじゃないとやっぱこう、とか、お肉はやっぱチキンかなぁとか、そういう型。

日本だと様式美とかっていう言葉ともはまっていくものなんですかね。
基本的に音楽に日常的に触れる機会が一般の平均値よりおおよそ少しは多いであろうわたしのような立場の人間が思考を吐露できる型なんて、無論音楽の型ぐらいしかないんですけども。

音楽の場合ジャンルという言葉にも置き換えれるんですかね?やっぱり。カテゴリーというか。
邦ロックならワンオクだろ! とか
ストリートパンクはやっぱハイスタだろ! とか
これまた無限に様々な意見があるのだと思いますが。

私の場合思春期の特に音楽にのめり込んでいった高校時代に、めちゃくちゃはまりにはまりまくったというか心臓ど真ん中撃ち抜かれたジャンルや型はやっぱ、いわゆる90年代ヴィジュアル系にあるわけでありまして。
そもそもヴィジュアル括りすんなとか、せめてV系と呼べとか、様々な意見もこれまたまたまたあるとは思うのですが、私にとってのその中でのやはり外せないマスターピースX JAPAN(X)やLUNA SEAであったりするわけであります。


それらを聴くきっかけというのは、Xなら紅、LUNA SEAならTRUE BLUEというハイパー王道ソングからそれらのリスナー歴をスタートさせたわたくし。
そこから芋づる式に他のアルバムを聴いたり、枝分かれするかのごとく他のアーティストの名前に辿り着いていくことになるわたしなんですけども。


ただ音楽をいわゆるプレイヤーとして始めたとき、自分の楽曲を作曲してステージでプレイを始めようとしたときは、たしかとても葛藤したことがあった覚えがあります。
自分の好きなアーティストを信望するあまり、自分の作る楽曲がそのアーティストらの劣化コピーになるのは嫌だぞ、というわりと恐らくよくある葛藤ですね。

やるなら自分の好きだったアーティストらの美学を自分なりに消化して自らの地肉にした音楽をやりたいんだぞ、的なことをステージに立つことを目指したときに思いましたね。

故にそれと平行した音楽リスナーとしての歩みが随分ひねくりまくった感覚があるわたしでございます。
LUNA SEAが好きなら素直にLUNA SEAの楽曲を順に聴いていけばいいのに、

「いや、ここでLUNA SEAばっか聴いてたら俺はLUNA SEAになっちゃうぞぉっ!!」
「ならばマリリン・マンソンはどうだ!」
「かっこいいっっっ! Slipknotも、いいぞぉっ」
「なにぃ、マリリン・マンソンはメイクはしてるからV系っぽいしガキっぽいらしいとの噂があるだと!」
Slipknotも皆聴いてるから結局誰かとおんなじ趣味趣向になってしまうのではないかっ⁉」
「畜生、ならばDEADENDだ!」
「なにっ、やっぱDEADENDもフォロワー多いのか、ならば(略)」

と、恐らく音楽リスナーなら誰でもなりうる
「孤高の音楽を聴いてる俺は凄い、かっこいい病」
にかかっていました。

やっぱ一度誰かが聴いてたりフォロワー宣言してると、嫌になって他のアーティストに鞍替えするファン心の欠片もない感じになってましたねー。
なんだかんだいって、全ての始まりだったLUNA SEAやXの回帰率というか、「やっぱお前がNo.1!」と聴き直す率を尋常じゃなかったんですけども。


ステージで自分がやろうとする音楽も、そんなだから節操ないというか、「なんでもありだ!」
ということになっておりまして。
少し脱線すると今から聴くと「なんでもあり」の割には、最果テの音楽とかはどっからどう聴いてもLUNA SEAやXの要素がつまりまくっとるやんという具合になっておりまして、あり余るリスペクト心を寿やこうきに音楽的にも実務的にも軌道修正してもらった感のある次第であります。


でも当時はいわゆる、様式美にはまりこむこととか、メジャーなものはやりのものを取り入れるのってどうなんだって意識が強く先行していましたけど、ここしばらく大分そこに対する意識が落ち着いて、型のあるものって素晴らしいなって思いが強くなってきてます。
やっぱり型があるゆえの頑強さ、骨太さ、ストレートさってあるんだな、刺さるんだなみたいな。
その場かぎりのものでなく、そこに至るまでの長い年月をかけて様々な人々が一つの抽象的な物事を実体化させようとした努力によってできた様式や伝統というのは、相応の強さがありますね。

結局メジャーを志そうとアングラを志そうと、皆おんなじ人間なんだなぁみたいなところに行き着く感もあったりで。

型って大事にしたいし、人と人とを繋ぐものになりますねやっぱ。
次の僕の活動も、ちゃんと型を大事にしてやってこうと思いますね、はい。

でも今度は闇雲に一つの自分の型を作るというより、死ぬほどたくさんの型を並べて誰かに提示する形にしたいですね。
なんでもありなんでもあり。

ではまた。