iwayamarock’s diary

シンガーソングライター、岩山泰輔のその時思ったことを書いていくブログです。

一言

一言の題なので超単発で書きます。

いつからロックスターは、世間に気をつかわなければならないものになってたんでしょう。
いつから「盛り上がってなければならない」「最高の親友や仲間が出来るような在り方でなければならない」「熱狂的な支持者がいなければならない」ようなものになっていたんでしょう。

そんなくそったれな「聴き手」目線なんかを気にせず自分の在りたいと思った在り方のままぶっ飛ばすために、僕らミュージシャンは楽器や音を手に取ろうとしたのはないでしょうか。

何でいつのまにか「誰の目も気にしない」ことを唯一社会に許されて仕事が出来る職業が、「誰かの目線」ありきで進まないとやりづらいようなものになっていたんでしょうか。

独りだろうと世間から隔絶されざるおえないような感覚を持っていようと、叫びたい何かがあったから僕らは音で叫ぼうとしたのではないでしょうか。

その「訳がわからないけれども絶対に叫ばなければならないと感じた何か」の力は、誰かが隣にいることありきでなければ通用しないものだったんでしょうか。

その力の真価はその程度のものなんでしょうか。
だとしたら本当にそれは誰かの心を揺さぶる、ロックといえるものなんでしょうか。



いやそんなことはないと思います。
その「訳がわからないけれども絶対に叫ばなければならないと感じた何か」は、時に誰かの人生を意図せずして救ったり狂わせたり、意図せずして孤独にさせたりそれでも前に進ませたり出来る力を持ってることを僕は感覚的に経験しています。

生ぬるい感覚が見せる幻想なんていらないです。
その幻想がただの夢でしかない、その先にあった悲痛な現実をそれでもぶっ飛ばして前に進める力の在り方の一つがロックだったはずなんです。

ロックという在り方は前世紀にほぼほぼ偉大な先人達に開発されきってしまいました。
今世紀では出来上がったロックという基盤を元に新しい時代の音楽が芽を出しています。
「ロック」という音楽ジャンルはもはや新しい芽に栄養を吸いとられるだけの、死体が腐って分解されて地面に吸い込まれて新しい命に繋いだ「過去のもの」になっているのかもしれません。

でも僕ら当事者としてそんなことはどーでもいいはずです。
「ロック」の在り方とはそんな文章だけで説明しきることが出来るほどの陳腐なものだったんでしょうか。
いつの間にかその陳腐な既存の在り方に寝転んでパジャマパーティーして談笑してるようなものになっていたのは何故なんでしょうか。

いやちげーだろ。
「ぶち壊してやる」「ふざけんなくそったれ」
そうぶっ飛ばせる在り方だったはず。

今生きている時代に対する問いかけのロックを俺は絶対に忘れたくありません。
だってパジャマパーティーのロックなんて僕にとっては一番つまらないんだもん。

いや、ロックの出来上がったイメージに対するアンチテーゼとしてのパジャマパーティーロックならまだしも、それがロックのメインになったり皆が原点を忘れるのはまたちげーだろって。

これからも僕は僕の思ったことを表現するただその為だけにロックをしようと思います。


一言とはなんだったのか
どっこい