iwayamarock’s diary

シンガーソングライター、岩山泰輔のその時思ったことを書いていくブログです。

結局のところ最果テとはなんなのかを言語化しようとしてみた

いつもみたいな丁寧な前置きは今回ないのですが、ちょっと最果テのライングループで語った内容がすごくこのブログ向けな内容だなぁとメンバーも僕も思ったので、ハイパー雑にそのまんま掲載します。

恐らくまた後日解説として新しい文章を書き起こす、予定。

ではごゆるりとお読みください。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


『長文になるけど、最果テとはなんなのかを自分なりに言語化してみた

最果テを構成する要素とは何なのかに焦点を合わせて書こうと思う



俺土曜の話し合いからソロと最果テがどう違うのかずっと考えてたんだけど

やっぱ最果テはバンドというより俺の中で現象に近い

俺が最果テに込めてきたものってたぶん、
俺が小さい頃から見てきた仮面ライダーとか戦隊ものの巨大な逆境に立ち向かうヒーローを描いた特撮、
冒険と世界や大切な人を救う物語が詰まったアニメの感動、

そういうのを自分が置かれていた状況に重ね合わせて、文字通り世界を救うために自分の持つ全身全霊の力を込めて表現してきたんだと思う

それってすごいアニメ的、少年漫画的で、ともすれば世間にはくさいと言われて切り捨てられてしまうものだけど、二年前の俺はそれを絶対に馬鹿にされるわけにはいかなくて(自分の内なる希望を否定されるわけにはいかなくて)、

あんな今の俺がみても笑ってしまうくらい空回りしまくってでも自分の持つ表現を全部ぶちこんでたんだと思う

そういった果てない希望や夢を、それを現実でなそうとするときに伴う絶望や挫折のリアルも同じ密度でロックで表現する先駆者が、俺にとってLUNA SEAやXだった

だからたぶん初見の人には強くそれらのバンドの影響を感じさせるんだと思う

でもたしかにこれらはロックというフォーマットの中での表現に閉じ込めているけど、蓋を開けてみれば俺がそこにぶちこんでた要素はアニメや少年漫画の刹那的な熱さやそれらを構成する物語的、劇的手法だったり

他にも最果テの音楽があれだけの熱さと同時にリアリティを体現出来ていたのは、常に戦争や外交問題をより切実なレベルで抱えて、そういった現実の中でも人に響く歌を作ろうとする洋楽的なメンタリティも作用してると思ってる

そしてなによりもメンバーの人間性や音楽性が全く違うもの同士が惹かれあって紡がれる現実の物語が、まるでドキュメンタリーのように作用して上の要素の密度やリアリティを底上げしていたんだろうね

つまり最果テは、本来なら1つの要素を極めるだけでも生涯をかけなければならない表現の方法を、ロックというフォーマットに複数ぶちこんでいたんだと思うし、それが相対的に見て他のバンドやグループが薄くペラく見えた理由だったんじゃないかな

だからもうそれはバンドだとかっていうより、ロックをベースとした総合芸術に近い

ロックという音楽の単語だけで見れば極める必要があるのは音楽的素養や技術、それらを扱うマインドだけだろうし、実際それらが大抵の人々は特定のジャンル内で一定の平均のレベルに落ち着くから、対バンイベントっていうイベントが成り立つんだと思う

でも最果テは上記の通り、音楽単体だけではなく他に様々な要素を伴っているから、それが音楽とそれを映えさせるためのパフォーマンスのみを求められる対バンイベントには馴染めない理由であると共に、ラストワンマンのあの濃さの根拠になってるんじゃないかな

だから最果テをやるときは、俺は本当に汗水足らして空回りして10000度くらいの熱さの台詞で自分を奮い立たせないと最果テにはならない、少なくとも俺が受け持ってる最果テの役割は果たせないと思ってて
そうじゃないと最果テの秘めてるアニメや少年漫画の感動を体現できない、そのリアリティを維持できないからだと思ってるんだけど

でもそれはこうきやひさし、しょこくんみたいな正にアニメや少年漫画の中の仲間たちのような存在がいるから出来ることで

共に物語を紡いでいける奴が俺の爆走を受け止めてくれる、あるいは誰かが爆走しても誰かがそれを受け止めれるから成り立ってんだよね

そこが根本的に最果テと他の活動では違う
で、たぶん皆のやってる他の活動と最果テの違いもきっとそう

でも俺はある時から、最果テを構成する要素の全てを一つにねじ込んでまとめて出すのではなく、一つずつ分けて一つずつ極めようとしながら表現することにも同時に惹かれるようになった

そのときに出てくるのがソロと哥劇団なんだよね

ソロは最果テのバックボーンになっている洋楽のリアリティを、俺個人がよりマニアックに突き詰めたくなったときに必要だし
哥劇団は最果テの少年漫画やアニメの劇的手法によりフォーカスをあてて
掘り下げて追求するためには、文字通り劇団が必要だった

で、それらを運営するには最果テでのステージでの俺の役割と違う、ある種のプロデュース力やマネージメント力をより冷静に扱っていくことを求められるし、そうなると最果テとは全く違う視点でソロや哥劇団を運営していく必要性がある

だから、どうしても俺の中で全然最果テとソロや哥劇団を同次元に見れない

でも個人的には、すごい今は好循環なルーティンを生きてる実感がある
最果テと平行してソロと哥劇団があって、ソロと哥劇団で一つずつ会得したノウハウや技術をそっくりそのまま最果テに全部ぶちこんで還元できる

これが最果テ一個だけをやっていた場合、もしかしたら俺はこうきやひさしやしょこくんに演劇の芝居をすることを求めるようになるかもしれないし、
洋楽のノウハウを会得するためにU2Slipknotのものまねを他の三人に求めるようになるかもしれない

それって最果テの秘めた本質を見つめてみたら絶対に間違ってるし、誰もそんなもんは求めてないのは明白だと思う
それじゃほんとの意味でアニメや少年漫画や特撮の「ごっこ」になっちゃうよね

ただ劇的な演出をやって洋楽っぽいことをやれば最果テになるのではなく、根本にあるのはクリエイターの先達らが自ら作ってきたアニメや漫画や特撮や映画に込めてきた「祈り」「願い」「希望」「夢」を体現できるから最果テになる』

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

僕とBUCK-TICKと水曜どうでしょうの話

春の到来の香りがしますね。
朝を目を覚まして、外に出たときのあの妙に陽気な感じ。
夕方と共に不思議でどこか懐かしいようななんとも言えない空気感がやって来て、真夏の騒々しさとも真冬の静けさとも違う、まさにこれから新しい季節が巡り始めるような予感を感じさせる季節でございます。
岩山泰輔です。

ポエムポエムポエムポエム。

歌詞ならともかくいざこう人目にシラフで触れられることを意識するとなんともストレンジな言語感覚になってきます。
岩山泰輔でございます。

今週ブログの更新の頻度が高いですね。
春だからです。

それではさくっと謎の見出しであり今回のテーマについてお話しましょう。
今回のテーマは「BUCK-TICK水曜どうでしょう」についてです。
「急にどっからその単語出してきたんだ」ですって?
まあまあまあ。


BUCK-TICKに触れるようになった近況●

最近、僕のプレイリストの中でBUCK-TICKに触れることが多くなりました。これを書いている直前にも、BUCK-TICKの「memento mori」というアルバムを一巡聴いたばかりでございます。
一応趣味としても教養としても、出来るだけそれまで聴いたことのない音楽に毎日何かしら触れるよう習慣付けているのですが、何となくここ最近興味をそそっていたのがBUCK-TICKさんだったわけです。

実は僕が高校生の時にもLUNA SEADIR EN GREYからルーツを掘り起こして聴く過程でBUCK-TICKにもちょっと触れてはいたんですね。
ところが、たまに琴線に触れる曲はあれどLUNA SEAやDIRほどの吸引力はあまり当時の自分には感じられなくて。

なぜそんな自分が今になって妙にBUCK-TICKに興味を持っているのかを確かめるべく、試しにYouTubeの公式アカウントに載っていた「Just one more kiss」と「スピード」のPVを再生してみたんですが。



そしたら、すげえかっこいいの。



●異界の存在が現れたぞ●

まずその時最初に惹き付けられたのがやっぱりボーカル櫻井敦司さんのビジュアルと歌唱ですね。
どうなってんだろう、人間なのかな?魔族とかじゃないのかな?とこの時本気で思いました。

僕のロック原体験は間違いなくLUNA SEAとXだったんですが、彼らの表現には気合いという、「人の意思の力」といいますか全身全霊全力で自らの美学を音でも歌詞でもビジュアルでも表現しようといういわば自意識の塊のインパクトが詰め込まれていて。

逆に言えばそれだけ「うおおおおお」という努力や鍛練の気配を感じさせる、「作り込まれたもの」を感じさせるものがあったゆえにあくまで「凄い【人】達だなぁ」という感想が僕の中から出てきて。

しかしBUCK-TICKの櫻井さんはというと、ビジュアルも歌唱も何もかもいい意味でナチュラルといいますか、わざわざ演出する必要もないくらい自然体で異様だからこそ、妙なリアリティを持って「本当は魔族なんじゃないの?」と思わせられるような説得力を放っていたような気がするんですね。


SF映画の中での特殊な設定って、リアリティを追求するほどそこまで過剰に演出して見せないじゃないですか。
例えばガンダムとかって自然に兵器としてモビルスーツっていう設定でロボットを作品に登場させるけども、別にガンダムを「太古の昔に産み出された伝説の巨人」みたいな感じでは見せないですよね。ああいう感じ。
(ガンダムファンの方へフォローをいれるとあくまで宇宙世紀ものとかの雰囲気でいうとですよ。)


ナチュラルに変●


それで次に見入ったのがギターの今井寿さん、そして彼のギターを筆頭に繰り出される何か独特の個性を感じさせるバンドサウンドでした。
それでまたまた不思議に思ったのが、なんとなくそれらが独特な塩梅で変なんですよね。

大体同世代の方々で括られる、
LUNA SEAのような一目で分かる斬新さと邦楽ロック王道の快感原則の合体でもなく、
DIR EN GREYのような凶暴で骨太な音の中へ落とし混む和の摩訶不思議さでもなく、

ここでもというか、ただただナチュラルに変なんです。
まるでただ自然に自分達の王道を表現しているだけなのに勝手に不思議な部分がついてきてるような。
一聴してすぐ分かるというより、冷静に聴いてみるとなんだか変だぞっていう感じなんです。
ただあまりにもナチュラルにそれを表現してるが故にそれに気付きにくいというか。

同じくギターの星野さんやベースの樋口さんにドラムのヤガミトールさんはすごく堅実かつ説得力のあるバンドサウンドを鳴らしている中、ふわ~っと漂うような今井さんの弾くシンセやギターと堂々たる魔族の櫻井さんが現れたその瞬間に、「なんかこの音楽に変だ!」と突きつけられるんです。


そしてこのバンドメンバーから滲み出てくる「ストレンジな自然体」が、妙に落ち着くと同時にここ最近の僕をBUCK-TICKに引き寄せていた理由だったんだと思ったんですね。

気付けば、どんどんアルバムを掘り起こし、バンドにまつわるあらゆる情報やネタを掘り起こし、その中で見つける不思議な魅力に衝撃を受けていく自分がおりました。



水曜どうでしょう「ここをキャンプ地とする」●

そうして僕がBUCK-TICKの扉に吸い込まれるのと同じ頃。
先日新作の水曜どうでしょうがオンエアされましたね。僕は残念ながらテレビ放送の方を見れなくて、ずっと過去作の企画の方を見まくっていたのですが、ここしばらくの間で僕はすっかり水曜どうでしょうにはまってしまいました。
きっかけは恐らく数日前、YouTubeに上がっていた公式アカウントの名場面集の動画を見たことです。

2002年のレギュラー放送からたまーに新作を発表するようになったどうでしょうの、多分新作オンエア記念にピックアップされ投稿された動画だったんでしょう。
YouTubeの「あなたへのおすすめ」に1つその動画が出てきて、「そういやどうでしょうちゃんと見たことないな」と興味本意でクリックしたわたし。

動画を再生してからすぐに飛び込んできたのは、真っ暗な夜の闇の中、道端でわずかに車の外装がちらつくと共に図太い声で聞こえた以下の台詞でした。


「おい!このバカヤロー。いいか。よく聞け」

「ここをキャンプ地とする」

直後、聞こえてきた男達の爆笑につられて自分の頬もゆっくり緩んでいった覚えがあります。

これが僕の水曜どうでしょうファーストコンタクトでした。


●自分の中で覆された大泉洋さんのイメージ●


ざっくりと番組と出演される方々をご紹介すると、
著名なドラマや映画に数多く出演されている俳優の大泉洋さん、北海道のテレビ局を中心に活躍されている通称「ミスター」鈴井貴之さん、画面には基本出てこないもののひたすら大泉さんと舌戦を繰り広げる藤村ディレクター、たまに呟く台詞が光るメインカメラマン嬉野ディレクターの4名(通称どうでしょう班)で構成されているこの番組。

元々北海道のローカル番組から始まったというこの番組は、ひたすら藤村ディレクターの欲望のままに行きたい場所をピックアップし、他3名のタレントさんとディレクターさんがひたすらそれに付き合って旅をする模様を延々と撮り続けるというこの内容になっております。(あまり間違ってはいないはず。)


それでその旅の模様というのが、延々と上述の会話を繰り返すような脱力感と、笑いの神が気まぐれに現れるかのようなタイミングのよさでおよそ一話24分間続く内容になっています。


僕は大泉洋さんというと、あまり自分が見たことのない映画やドラマで出演されてる「どうやらすごく人気なスター俳優なんだな」という以外には正直あまり印象が薄く、まともに大泉さんが出演されている番組を見るのはどうでしょうが初めてで。

一番最近のイメージでも、なにやらラグビーのドラマに出てる大泉さんの姿で止まっていた僕は、なんとなく「ちゃんと決めるときに決めるが基本トークでしゃべくりまくる感じの俳優さん」というところに落ち着いていたのですけども。
ひたすらどうでしょうの他の名場面集で、周囲にしっちゃかめっちゃかしながら言葉をまくし立てる大泉さんを見て、久しぶりにめちゃくちゃ笑っていました。




●タレント地のキャラで進行する馬鹿馬鹿しさの快感●

分からないんですけど、どうでしょうを見ているとここ一番というところでどわっと笑うというより、ずっとにやにやしながら一定のスパンで小規模な笑いの爆発を浴び続ける感覚があるんですよね。
だから何も考えずに見れるというか、ぎゃははと笑い続けて気付けば最後まで見終わってる感じで。

あえて言語に置き換えるとするなら、

これは多分番組自体が最低限の余白を確保しつつ、ざっくりとした大枠に向かってあまり深く練らずにぐだぐだしつつ勢いで進行していく中で、タレントさんが素のまんまで突っ走っているから。

みたいになるんでしょうけども。
そう言葉にすることすら馬鹿馬鹿しく思えるくらい無心で自然に見て笑えるんですよね。

だって画面外の、本来ならジェスチャーなどで進行をタレントさんに指示して管理するであろうディレクターさんが、率先して誰よりもしゃべりまくってタレントさんにツッコミまくって状況をわちゃわちゃにしていくんですもん。

で、その状況を一身に背負うミスターこと鈴井さんと大泉さんの両タレントさんが、これまた反論し愚痴を吐きながら無茶振りにわちゃわちゃし、それに対してもまたディレクターさんが無茶振りを投げ込んでいくという、止まらない軽快なキャッチボールを番組の間終始見ているようで。

しかしそうやって顔を出すアナーキーさが本当に作為を感じさせないんです。計画とか構築とかとは無縁で、なんならカブで西日本を巡る旅のゴールも「元々のゴール地には温泉がないから」という理由で最後の最後で別の場所に変わって。
だから出演する人の誰もがリラックスという言葉を出すまでもなくただただ地でわちゃわちゃする。
そして目的地になんとかたどり着いて、「またこの面子で旅がしたいですね」で締める。

番組の進行的に似たようなスタイルですと多分「イッテQ!」とかも近いのかもしれません。でもどうでしょうに関して、個人的にはなによりここまで無心で見れるっていうのは新鮮だったんです。
 


●両方の存在に感じた自然体の魅力●

ここでBUCK-TICK水曜どうでしょうを並べてみて感じるのは、やはり自然体だからこそ出せる魅力があるんだなということでした。

僕の場合これまでの表現活動において「構築しまくってから破壊する」という過程が好きで、ある種のフェチすらあった気がするんですが、それもあくまで「とりあえず何かしら頭を捻って美意識を高く構築しないと始まらない」という前提が無意識に必ずあった気がしていて。

だけどそもそもこの両者の場合、もっと軽快なんです。深く色々なものを抱え込みすぎない軽快さがすごく心地よくて。そこでぱっと繰り出される異端さやアナーキーさがオリジナリティを彩るのに、決して力みが見えないその姿勢に今はすごく興味を感じています。

それでBUCK-TICKの音源を聴いててなんとなく思ったのが、例えばBUCK-TICKLUNA SEADIR EN GREY三者三様に料理を作るとなった場合の風景がぱっと浮かんだんですね。

僕の勝手なイメージですが、LUNA SEAはひたすら真面目に必要な分だけのカロリーと必要な栄養素を最も合理的に揃えた料理を並べて、アスリートよろしく「これでまた体を作るぞ」とかっ食らっていき。

DIR EN GREYだと食卓についた瞬間、よく見れば料理が全て蟲に埋め尽くされていて「こんなもんやってられっか」と全部皿をひっくり返すような。

だけどBUCK-TICKの時だけ、作っている人達は不思議で魔族のような姿をしているんだけど、美味しいお酒と料理がどんどん並んでいくような風景を連想するんです。

その力の抜き具合というか、自然で上質なものの中身に垣間見える個性が優しく聴きやすくて。


●地が個性的ならそれでいいじゃん●

BUCK-TICKの場合、他2バンドほどでかいものを無理に背負っていない感じがするんです。
宇宙を変えようとするほどの大望を背負ってもいなければ、音楽や自分達のやることを見下げてもいない。

水曜どうでしょうにしたって、ローカル番組からあれだけメジャーな知名度を誇る番組になって、それでも全然あの脱力感とぐだぐだ感が変わってないのは本当に凄いなと思って。

どちらもただ自然に自分達の中から出てくるものを並べて、だけど締めるところはきっちり締める。
毎日楽しくやってどこが悪いのよ、っていう。

緩やかで、それでも確かな衝撃を僕は感じました。
「あ、こういうやり方もあるんだな」って。

死力を尽くして自壊しそうになりながら、自分の全てを賭けて毎回爆走することを己に課さなくても、それだけが全てでもなく。
そういうことを経験した上で、もっと自然に自分の不思議なところをぱっと出していくことだって出来るんだな、みたいな。


●一番自分に合うと思った道を歩いていこうか●

多分この感覚は、これからの僕の音楽活動や生活そのものにも大きな影響を与える気がしています。
まだまだ前人未到、そんな道を歩いていきたいという気持ちは変わりませんが、自分に自然とフィットするなぁって思った道をこれからも歩んでいきたいですね。
思うようにならないこのご時世。
楽しんで生きて進んでいきましょう。



とりあえず、温泉にいきてえ。


では、また。


岩山泰輔

岩山哥劇団というものの意図、ネタばらし

いやはやいやはや、気が付けば季節の春はすぐそこまで迫っておりました。久々のブログ更新で更新の仕方をすっかり忘れて右往左往した後にここにたどり着いた人、岩山泰輔です。

わたくし、ここ4、5ヶ月は岩山哥劇団の設立やトリプルギターでの初ライブ、アコースティック装飾空間対バンイベントに、緞帳作って本来ないはずの下手花道を無理矢理開拓しながらはしごを備え付けてそこで歌ったりしてたライブハウスワンマンなど、とにかく哥劇団尽くしの生活を営んでいた次第でありまして。自分達のことでとにもかくにも精一杯な状態であるのですけども。

そういう自分の生活が目まぐるしくごった煮返しになっている中、日本国内を始め世間世界様も凄まじくごった煮返しであったようでありまして。
この4、5ヶ月で世間世界様で起こっていたこと或いは現在進行形で起こっていることを掘り起こすだけでも今回の更新が終わってしまいそうなのでいやはや。

そちらへのコメントは差し控えさせて頂きます。


そんな中での今回のテーマは「岩山哥劇団というものの意図、ネタばらし」というところに焦点を当て、進んで参りましょう。
何、前の更新より文体が芝居がかってる?回りくどいって?そりゃ哥劇ですから。
すっかり回りくどい病に毒されてしまったわたくしですから。


岩山哥劇団というものの原型をぼんやりと意識し始めたのは恐らく去年の9月頃、「ワンマンをやるぞ」という予定を立て始めた辺りであり、僕のソロのライブパフォーマンスが以前よりもっと演劇的なアプローチに接近し始めていた頃ですね。
ではその話から、岩山哥劇団の根底にある目標へと順に繋いでいこうと思います。

今回、多分過去最強に長いよ!!
飛ばし読みでも全然可。

それではそれでは。


①ワンマンをやることの必然性

まずワンマンをやるという自分の中であった必然性について話していくと、ソロをやる中である種の行き詰まりの過程があったんです。
近年世間世界の日本のシーンではフェス文化というものが目に見えて台頭、生活の中に浸透していってることはバンド関係者音楽関係者のみならずより明白なのではないかと思います。
僕個人にとってフェス文化は、かなり乱暴に括ってしまうと対バンライブイベントの巨大化というところにあって。(あくまで僕個人の主観ですよ。)


僕もこれまでバンド活動というものを始めてから、基本的に対バン方式というものと密接になってライブ活動や表現活動を行ってきまして。というかそれ以外のやり方を知らなかったって言うのが正しいのかも。

で、対バン方式ということで大体5、6のバンド各グループがおよそ25~30分の持ち時間の中でライブをして、イベントを行うというものなんですけど。
僕にとってそれはすごく自然な当たり前のライブイベントの進行の仕方で、当たり前のものだったんですね。


そういう状況での僕の中の表現における無意識レベルの前提として、「いかに人と違うことをやるか」っていうのがあって。

僕の中のその思想は、盟友達とバンドをやっていた頃はある種各バンドの個性として機能していたんです。
5、6バンドもいるわけですから、やっぱ他と同じことをやってると差別化できないし、誰かに覚えてもらえないしっていう意図の元、バンドメンバーに支えてもらいながらそういう個性みたいなものを構築しようとしていたんですけど。

そこからソロという活動形態になった時、自分の表現における発想をそのまんまはめようとして、はまるシーンや場所がほとんど周りにないことに気がついて。
さっきのバンドメンバーに支えてもらってていう言葉の肝はここにあるんですけども振り返った時、僕は他のメンバーの普遍性に僕の個性や自我の成立を助けられていたんです。
僕がどんなに好き勝手やりたいことをやりたいようにやっても、他のメンバーのロックバンドであろうとする姿勢が、僕の住所をロックバンドでいさせてくれたんですよね。

だから結局、ソロになった瞬間に僕の個性が強く浮き出すぎてしまって、はっきり言ってどこにも溶け込めなくなってしまったんです。
それまでは僕のアクが強くても他のメンバーの持つ普遍性やポピュラリティが中和してくれて、ある一定のカテゴリーに落ち着けられたんですが、ソロになった瞬間その住所が突然なくなっちゃって、ホームレスになっちゃった。

僕のどの辺の個性が強いのかっていうのは、日頃の僕のツイートやイベントの内容を参照していただくとして。
つまりはソロでピンの僕を見た時、



「お前色々やってるけど結局一体何なの?」



ってなっちゃったっていう。
これで去年8月頃凄く深く悩んだところでありまして。



②「なんでもやる」て何をやんのよ

思うに対バン、フェスとかって、ある種一定の枠、一定のジャンルやカテゴライズの中で出演者がちゃんとおさまってるから成り立ってる部分ってあると思うんですよね。
だってフェスやるぞっていって、邦ロックバンドがいくつか出演した後に、同じ会場でドヴォルザークの「新世界より」をどこかのクラシック楽団が弾くステージがあるイベントがあるとしたら、ちょっと「?」ってなるじゃないですか。
つまり邦楽のロックという、あるジャンルの中で多様性を見せようと様々なアーティストが出演するからイベントの趣旨や客層がはっきり固まって、イベントやビジネスとして成立するのであって、そこから飛躍し過ぎたらお客さんや主催者や誰かの理解の範疇を越えてしまった、と。

でも僕はロックバンドが出演した後に新世界よりを演奏するようなイベントをやりたいと平気で考える人間なので、その時点で世間の潮流との噛み合わせが合わなくなるんですよね。
そんな僕のやりたいことをやりたいようにやる場合、今のメインストリームに僕の居場所ははっきりいって無いんじゃないかっていう。

かといって、じゃあ路上に出てどこかの枠の外でやっていこうとすると、これまた僕のアクの強さが全然路上に噛み合ってくれなくて。これは去年7月に東京と名古屋と静岡で路上の旅に出たとき思ったんですけどね。

路上ライブという解放された空間では、或いはずっと世間という枠そのものに接続されている路上の世界では、世間に噛み合わない僕が好きにやっても誰かに届きづらかったというのが路上ライブをやってみた僕の感想で。

僕はやっぱり異形の存在に心惹かれる部分があって、それを自分の表現の中でも出現させていきたいんですけど、僕の求める異形は、世間ではまだ求められていない異形だったわけです。

じゃあもう、欲しい異形を好きに出現させても文句の言われない閉鎖空間。
ワンマンしかないなっていうのは、自然の成り行きだったんです。


③密室の空間に空想の具現化を

演劇的なアプローチへの接近についてなんですが、思うに僕にとってのロックとか作曲とか歌は全部、僕の頭の中に閃いた空想を形にして世の中に具現化するための手段であり。
その頭の中に最初に出てきた空想に、ジャンルやカテゴリーというものは本来ないんですよね。

あるとすれば、「これはかっこいい」「これはそんなでもない」っていう直感しかなく。 
なんなら音とか曲とか歌だけじゃなくて、想像した瞬間の頭の中の空間そのものを切り取って僕は出来るだけ現実の世界に顕現させたいと思っていて。

これはある種ゲーム的な発想かもしれませんが、空想の中にだけあった世界や空間も人も文化も価値観も全て舞台の上に引っ張り出して、自分という操作キャラをその舞台の世界観に見合うものを纏わせて操作するという感覚が一番近いかもしれません。

僕はその切り取った世界の中で限定するなら、美しい天使にも醜い悪魔にもなりたいし、空も飛びたいんです。

だからたぶん、そんなファンタジーの世界を現実的にそれをどうするのかというのを考えたときに演劇的なアプローチに行き着くのもまた必然だったと思います。

それとやっぱりある意図の元作られた空間というものが力を作用させられる距離の限界というのは路上ライブの時にも感じていて、この方法論は密室や閉鎖空間のワンマンライブだからこそまだコントロールが可能なのかもしれませんね。

そこがバーとかアリーナとかスタジアムとかどんな広さであれ、枠として限界を設定されているからこそ表現できる世界があるんだなと思って。
路上でのそれというのも、技術や人材や経済力が揃ったときにやってみたいんですけども。



④想像を形にするための岩山哥劇団

じゃあその技術や人材、経済力をどう構築していくか、どう自分の住所を作っていくかという時に、劇団だ!
ということになったわけでございます。
劇団という括りにこれをいれていいべきかというのは悩みどころなのですが、少なくとも現時点において一番僕の目標である「想像をただ形にすること」を許される環境であるのは確かだと思っています。

異世界を現実世界に顕現する、つまり現実とは異なる価値観も文化も人物も存在する世界とその物語を呼び起こすというものは、ロックバンドというものが内包する要素ではあると思うんですよ。
聖飢魔IIとかX JAPANなんてその限りだと僕は思いますしね。大好きなんですけども。

しかし結局ロックバンドとカテゴリーに分類されるものである以上、いずれにせよ表現できる世界の限界がある。ならそれに適した環境や組織を自分で作るしかないと思ったんですよね。

逆に言えば哥劇団においてロックであるということは思想の根底に確かにある要素ではあるものの、わかりやすく表に出さなければいけない要素だとは思っていません。
今は、哥劇団というものの中身をお客さんや団員の皆さんに知っていただくため、一番わかりやすく一番自分がやって来た方法論であるロックバンドという形式を採用しているだけです。
それをショーとしてそのときそのとき形にしているだけなんです。

僕の目的はあくまでただ「想像を形に出来る」環境の構築であって、その中身がロックであろうとクラシックであろうとテクノミュージックであろうと、舞台演劇であろうと映画であろうと映像作品であろうと、何であろうと面白ければそれでいいんです。

その「空想」の出所が僕であろうと、僕でない他の団員であろうと、僕が一番求めているのはただ面白いことです。
僕は僕が面白いと思う空想を周りに誰も僕にあまり見せてくれなかったから自分が面白いと思える自作自演の空想をステージで表現してきただけで、他の人が代わりに面白いと思えるものを提示してくれれば僕はなんだっていいと思っています。


⑤お前の空想で世界を揺らしてやれ

そしてこの環境を必要としているティーンエイジャー、アーティスト、職人やその他もろもろの人々はもしかしたらこの世界にたくさん存在しているのでは?と僕は思っちゃったりなんかしているのです。
僕の目的がただ「自分の想像を形にする」ことであるなら、相手がロックミュージシャンであろうとトラックメイカーであろうとジャズプレイヤーやクラシック奏者であろうと。

いや、どんな人間も関係ない。
ただただ「自分の中にあるよくわからないけど尋常でない何か」を引っ張り出す必要性に駆られているのに、それをどうしてもうまく形に出来ない人であるのならば、僕らの間に境界線なんてものはないはずです。



必要なものはここに全てある。
お前の中にある景色を、憧憬を、ここに顕現して見せろ。



そう自分も含む誰かに言えるために、僕は岩山哥劇団を作ろうと思いました。
今、前例のないこの劇団にぼんやりとしたビジョンや目標を提示出来るのはもしかしたら僕だけかもしれません。
だからもしかしたら今は、
岩山哥劇団=岩山泰輔
という中身になっているのかもしれません。

だけど僕は、僕や他の団員の方やまだ見ぬ悩める表現者と共に、アマチュアもプロも関係なくただ「自分の想像を形に出来る」環境として岩山哥劇団を提供できる時までもうちょっと進んでいこうと思います。
願わくばその「空想」が、誰かにとっての嘘偽りのない本心が産み出した美しい幻想であることを祈っています。

その思いだけは、僕がこれまでやって来た最果テもDog mob incidentも木田マーチングもソロも、全てにおいて一貫していたものだと自負しています。





⑥大人も子供もプロもアマチュアも、やりたい奴は皆集まれ岩山哥劇団

はい、とまあそんな岩山哥劇団でございます。風呂敷のスケール感をやたら広げようとした前項までですが、僕が一番大切にしたいのは「想像を形にする」ことだけなんですよね。
だから、哥劇団を通して何かをやってみたいと思われている方には、無理に肩肘を張って欲しくないと思っています。

結局僕は、子どもが公園の砂浜で作っているものを、誰もがビックリするくらいのでかさで見せてみたいだけなんです。だから中身が砂利だったって何だったってなんでもいいんです。

僕は砂利でもなんか作るぞ~っていう人の持つ純粋な創作欲求とそれによる自己表現に興味があるだけで、その人に技術があろうがなかろうがそんなことは詮なきことです。

誰かから見て砂利だったとしても、本人にとってはダイヤの欠片かもしれませんし。

僕はただ、全長50mを超える巨大なガンダムのようなロボットをとりあえずその場に砂利で建造して、「すごくね?」っていいたいだけなんです。
人間のそんくらい純粋な表現欲が指し示す光明を信じてみたいんです。



⑦おわりに

現在岩山哥劇団、春から8月一杯までワンマンロックショー
「シネマティック・パンク・オーケストラ」
を予定しています。

プロジェクター映像使ったり、ステージが客席の四倍あったり、クライマックスでギターが分身したり、見所たくさん。
月ごとで少しずつショーの演目も演出もバージョンアップしていきます。逆にいうなら同じショーは一度きり、二度と見ることは出来ません。

うちは特殊なんで、公演ごとや演奏する曲に演目ごとでメンバーが全然違います。
なので同じショーは一度きり、二度と見ることは出来ません。
大事なことなので二回言いました。
逆にやってみたいなら、どうとでもなるんです。一曲だけでも一芝居だけでもなんとでも。

あなたがお客さんとして見ていたその1ヶ月後に、あなたが演者としてまた誰かにショーを届けることだって、出来るんです。


気になった方々は演奏会でも、舞台演劇でも、映画制作でもなんでもいいので、やりたいことがある人は、この指止まれ。

とりあえず、
●ギター弾きたいけどやり方わかんない。
●ベース弾きたいけどやり方わかんない。
●ドラム叩いてみたいけどやり方わかんない。
●曲作ってみたいけどやり方わかんない。 
●歌を歌ってみたいけど、人の集め方もやり方もよくわかんない。
●面白い中身を写真で撮ってみたいんだけど、そういう場所知らない。
●他では絶対やらせてもらえない無茶苦茶な演劇を作りたい、演じてみたい
●なんかよくわからんけど爆発したい

っていう人がいましたら、全部当劇団の守備範囲ですので、ぜひおいでください。
岩山哥劇団、月会費2000円。
こちらでなんでもこたえてみせよう。


まだ見ぬ世界を見たい人、作りたい人はどうぞ僕にご連絡を。


お前の世界を見せてやれ。


岩山哥劇団 主宰・総監督
岩山泰輔

ベストを尽くすこと

日本列島を覆い尽くすほどの台風が来ているみたいですね。
どうかこれを読んでいるあなたもご自身の身の安全のため今出来る最大限の努力をお願いします。

みなさんこんばんは、岩山泰輔です。
日本列島がこのような状況の中、このような個人的な文章を書いてネットの世界に放ってもいいものかしばし考えましたが、もしかしたら今だからこそ必要なのかもしれないとどこか頭の中で考えている自分がいます。
そのような過剰な自意識や自尊心の元にこの文章を書き起こします。

今日のテーマは「ベストを尽くす」。



僕個人の話をします。


僕はずっと、どうして自分がここにいるのか。どうしてあのとき大切だった誰かや何かはもうここにいないのか。それがずっと自分の表現の発端として音楽の活動してきました。

おそらく誰もが、どれだけ楽しかった瞬間や記憶、思い出が存在していてそれを永遠だと思いたくても、時間や巡り合わせがそれを全部過去のものにしてしまいます。

僕はそれでも自分の心の中にあった空白を埋めるため、あるいはもともとあったパーツを取り戻すために歌を歌ってきました。




ですが皮肉にも、僕や多くのアーティストがこれまで自分の作品を通じて世の中に発信してきた「前を向け、歩き出せ」という思いによって始まった行動が、時に過去をより過去のものにしていきます。

もどかしいもんで「もっとよりよき世界を!」という思いが今ある環境や世界を変えていっちゃって、ふとその「より良くなる前の世界」を懐かしがろうと思ったら自分で自分の元の世界を過去にしちゃってたっていうジレンマ。

そういう物事を知らなかった時の僕は、自分の描く最高の景色や理想を手に出来たら、無上の喜びや最高の幸せがずっと続いてるのだと漠然と思っていました。
だから最果テも頑張ったし、そこに至るまで過程も頑張れたりしたのかもしれないですね。

だけど少なくとも僕の場合はそうじゃなかったです。
いや、確かに2018年の3月10日の最果テラストライブのとき、僕は無上の喜びと最高の幸せを手にすることが出来たんです。自分が最初にたどり着きたいと思った風景での終わりじゃなかったとしても、人生の中でのかけがえのない盟友たちと最高の瞬間をあの日は過ごせたんです。

でもそれは永遠じゃなかった。生身の人の営みである以上、絵本みたいに「皆幸せに暮らしましたとさ」で終わりようがなくて。

人生はまだあの日で終わらなかったし、あそこにいたバンドもスタッフも観客もその先が続いていたんですね。

あの最果テのラストライブで今思うと、それまで抱えていた僕の人生の葛藤とか難問が、ある程度のところまでカタがついてしまった気がします。
それまで自分が求めていた「なんで自分はここにいてあいつはここにいないのか」っていうものへの答えが、あの日大体なんとなく自分でも納得できる形で完結しちゃって。
エンディングはむかえたもののじゃあどうする?って。


簡単に言うと創作する意義がわからなくなっちゃって。


もちろんクオリティの面ではまだまだ出来ることなんて一億倍ある出来だったのかもしれないんですよ。
でもクオリティなんてそんなものは表現の根本のところにある問題と比べてしまえばちっぽけで時間さえかければどうにでもなっちゃう気がして。
新しいことも新しい可能性も取り組むことにはワクワクはしてたけど、一番大事な「どうしてそれをやるのか?」の主体性がどっかにいっちゃって。

しかもこのブログで重ね重ね皆さんもうんざりするほど読まれている通り、全然ある界隈や業界での成功やそれを裏付ける数字自体には全然テンションが上がらなくて、余計何をすればいいかわかんなくなっちゃって。

だからもうよくわかんないテンションであれこれ手を出して。

でもバンド解散以後やったことどれもあんまりぴんとこなくて。
やることがなくなっちゃった。

いや、DMIや木田マーチングバンドやソロとかの活動で出会えた数々の仲間がいてくれてます。
彼らには何度もあらゆる場面を助けてもらってます。
これを読んでくれているあなたにも本当に感謝してます。

でもそれと同じくらい一人の人間として、自分の中の核、主体性がなくなることの空虚感が気持ち悪かったです。

せっかく最高の瞬間を体験できたのに、もう自分の人生の一番の瞬間が終わってしまったような感覚がとても変で、こっからさきの人生どう過ごせばいいのかわかんなくなっちゃってて。
え、もうこっから先は更新できないのかな?みたいな。
それならこの人生やってる意味あんまなくね的な。

最果テが終わってからの僕の音楽制作はそれまであった哲学的疑問を表現するものとは別に、少しずつ「今の時代にフィットする音楽ってなんだ?」を基盤に進むんですけど、どっかの時点で自分がバンド大好きな人間であることに気付いてそれもなんだか変になっちゃって。

そしたら別の現実が転がってんですよね。

正直バンド音楽なんてものは20世紀内で大体カタがついちゃってる文化だと僕は思っています。
だってそっからさき全然変革らしい変革起こってないですもん。アンサンブルの変化とかテクノロジーの進化とかそんなもんは目先耳先のものであって、その中身自体はなーんにも変わってない。

だから僕が大好きなこのバンド音楽も、21世紀2019年現在過去の遺産です。
だって新しくて変化してるのは、相対的にどう考えてもヒップホップやEDMやロック以外の音楽だと思いますもん。
日本はすごく特殊なシーンだと思いますからバンド音楽が独自の生態系を持ってますけど、アメリカや韓国のアーティストが華麗に奏でる最新のポップ音楽聴いたらぶっ飛んじゃって。
「ぜんぜんこっちのがかっこいいやん」って。
少なくとも僕らより若い小学生の女の子ですらジャニーズより韓国のポップアーティストの作品に興味が傾いて、ハングルを自分で勉強するくらいです。

答えは単純に向こうの方がかっこいいからだと思っていて。

そんな状況で自分がバンド音楽を大好きでいることに逆に嫌にもなりました。
「え、これ前世紀の遺物やん」
「大好きなLUNA SEAの一番盛り上がってたときですら1990年代やん」
「え、じゃあ俺に何ができんの?」
「俺は結局なんにも新しいものを作れんの?」
「そんな自分にとっての絶頂ですら最果テで終わり?」
「バンド好きな自分が、バンドが新しくない時代、バンドが大して求められてない時代で何がやれんの?」
ってなってまして。

DMIが今振り返っても結構面白いバンド、可能性のあるバンドなのは間違いないんですけど、やっぱ僕は「気合い」とかずっと叫べるバンドが大好きで。

最果テは完全に突然変異なんでそもそも比べようがなくて。
やっぱどう足掻いても最果テは僕にとってすごく特別なバンドです。
ちょっとこれから他に新しいバンドを組もうってなると全然浮かばないくらいには特別なバンドです。


でもその最果テも前に一回一段落自分でつけちゃって。
その後の、新しいものがどんどん出てくる世界で、

「え、もう俺って古くて、終わったの?」

って、どっか自分の思いがずっとラストライブ以降ありました。




ゲロ長い自分語りですがもうしばしお付き合いを。


ここまでの僕の体験したことって、形を変えてたぶんいろんな人が体験してることだと思うんですよ。

最高の人最高の幸せだとおもって結婚した人が、そのさきで挫折せざるおえなかった、とか。
せっかく長いことの目標だったものが、いざ果たすと嫌なところばっか見えてくるようになった、とか。
自分が夢見てきた理想といざ到達した現実にはあまりのギャップがあった、とか。

僕が体験してここで吐露した自分語りの内容も、これまで何億もの人類が形を変えて体験してきたこととなにも変わらない。

そしてその中で、「世界を救う」とか「世界を変える」なんてものを個人の思いをもって個人の力でどれだけ果たそうと、すぐ過去になっていく事実も変わらない。


じゃあ一番いい選択というのは最高によいと思えたその瞬間に自分の人生をそこで終えることなのでしょうか。
エンディング迎えた瞬間、クリア後にいくのではなくそこでセーブデータを止めておけば良いんでしょうか。
だって守りたいと思ったものも、大切だと思ったものも全部次の瞬間に過去のものになり始めると思うんです。
せっかく大団円を迎えたのに、わざわざそのさきなんか行かなくたっていいんでしょうか。


大切だと思ったものを守っていくのは並大抵のことではないんでしょう。守りたいそれも、守りたいと思ったその心も次の瞬間から変化が始まる。
その結果もしかしたらいつかそれは時間を経て「守らなくてもいいもの」になるかもしれない。
守る必要がないもの、守る気も起きなくなるもの、そういったものになっていくのかもしれない。
いやそもそも突然どうしようもない巡り合わせによって守るものと守られるもののどちらかもしくは両方が、突然ふっといなくなってしまうかもしれない。

なら、まるでゲームや1つ物語のようにエンディングで全てを終わらせてしまえばもしかしたら一番よいのではないか。

物語の登場人物の全ても、その書き手も、全てある瞬間でなくしてしまえばよいのではないか。

俺は、自分のストーリーが「完結」したと思ってタイトル画面に戻ればいいんでしょうか。



でもそうはならないんですよ。
寝て起きても、そこにはタイトル画面もニューゲームもロードの項目もなくて、ただ「生きてる」っていう、自分の生命活動が続いてることを認識させられる事実だけが残ってる。
解釈のしかたは人それぞれでしょう。
一個のストーリーの入ったゲームカセットをクリアしたと思ったら、別のストーリーの続編が入ったカセットの物語が始まってるのか。
いや、すごく長い壮大な叙事詩を、改めてニューゲームしてプレイしようとしてるのか。

いずれにせよ、人生のどこかで「最高の瞬間」なんてものを体験したくらいでは、人生は終わってくれないみたいなんです。
方向を変えて「どうぶつの森」で仲の良い村民と悠々自適ライフを送ろうとしても、なんかの拍子にさっさと村民が引っ越してくか、ゲームカセット自体どっかになくしてしまったりするのかくらいはこの「人生」という代物はややこしいらしく。

ならとりあえず今生きてるこの瞬間で出来る限りのベストを尽くすのが一番っぽくて。

例えポケモンはソードとシールドが発売前でダイヤモンドやパールが10年以上前のものだったとしても、ダイヤモンドやパールの発売まで時間を巻き戻せないとしても、過去がどんだけ眩しく見えたとしても、
ダイヤモンドやパールの面白さを自分なりに噛み砕いて魔改造しながら新しいゲームをプレイしてくことはできるはず。


それが結局自分が嫌だった「過去の遺物」に沈む行為だったとしても、自分の出来ることをやればいいはず。


俺が仮に何かの基準の上で「終わってしまった人」「過去の遺物の人」だったとしても、まだ俺が生きているこの人生は終わってないんですよ。
それはもしかしたらこれを読んでるあなたも。

最高の過去はすぐにただの過去になるんです。

だけどだからって終わるわけにはいかないんですよ。
終わる必要だってないんですよ。

俺の過去の物語は全部、過去に一つ一つなぜそれが起こったのかのきっかけ、原因がありました。
それらが芽を出し枝分かれして葉をつけ花が咲いてやがて種を残して枯れていったとしても、その全てには何か1つの始まりがあったんです。

だからきっと、これから先もその何かの1つの始まりを見つけ出していけるはずなんです。
俺やあなたが過去に心踊らせてきたあの冒険、あの友情、あの恋もあの奇跡も、全部これから新しく探していけるはずなんです。
少なくとも生きている限りは。


俺は結局古い人間なのかもしれません。終わってしまった人なのかもしれません。次の時代に必要とされていない人なのかもしれません。
それでも俺はロックが、バンド演奏が好きです。
気合いと叫んでバカをやってるのが好きです。

自分がどんな人間であろうと、どんな形でも自分の生きた証を人は残せるはずです。
人はどんな絶望的な状況の中でも、それぞれのやり方でもう一度立ち上がれるはずなんです。



俺が1つの種としてこの世に生まれてから21年、俺の人生の花みたいなものはもしかしたらもう咲いて枯れ始めちゃってるのかもわかりません。

だけどそんなことは本当は関係ないはずなんです。
誰がどう俺らの過去にどうこう言おうと、俺らは今この瞬間自分の思うベストを尽くすべく生きていけるはずなんです。



これからは自分の作る音楽が古かろうと新しかろうと、自分の心や誰かの心を真に震わせれる音楽になるよう最善を尽くしていこうと思います。
俺の物語が過去に1つ完結していようと、新しい物語を見つけ出すために自分のベストを尽くそうと頑張っていこうと思います。

周りなんか本当は関係ないですよね。
自分のベストを尽くした行動によって誰かとぶつかったとしても、そのときはそのときなりのベストを尽くします。
そしたらきっと、次はぶつからずにすむベスト、あるいはまたぶつかる日までお互いが尽くすべきベストが見つかるでしょう。
そしたらそれがきっと、次のそれぞれの未来を描いていくと思います。

だからきっと世界なんか変えれなくても、救えなくても、それでも出来ることはあるんでしょう。


俺は俺の道を行く。
お前はお前の道を行け。


では。

一言

一言の題なので超単発で書きます。

いつからロックスターは、世間に気をつかわなければならないものになってたんでしょう。
いつから「盛り上がってなければならない」「最高の親友や仲間が出来るような在り方でなければならない」「熱狂的な支持者がいなければならない」ようなものになっていたんでしょう。

そんなくそったれな「聴き手」目線なんかを気にせず自分の在りたいと思った在り方のままぶっ飛ばすために、僕らミュージシャンは楽器や音を手に取ろうとしたのはないでしょうか。

何でいつのまにか「誰の目も気にしない」ことを唯一社会に許されて仕事が出来る職業が、「誰かの目線」ありきで進まないとやりづらいようなものになっていたんでしょうか。

独りだろうと世間から隔絶されざるおえないような感覚を持っていようと、叫びたい何かがあったから僕らは音で叫ぼうとしたのではないでしょうか。

その「訳がわからないけれども絶対に叫ばなければならないと感じた何か」の力は、誰かが隣にいることありきでなければ通用しないものだったんでしょうか。

その力の真価はその程度のものなんでしょうか。
だとしたら本当にそれは誰かの心を揺さぶる、ロックといえるものなんでしょうか。



いやそんなことはないと思います。
その「訳がわからないけれども絶対に叫ばなければならないと感じた何か」は、時に誰かの人生を意図せずして救ったり狂わせたり、意図せずして孤独にさせたりそれでも前に進ませたり出来る力を持ってることを僕は感覚的に経験しています。

生ぬるい感覚が見せる幻想なんていらないです。
その幻想がただの夢でしかない、その先にあった悲痛な現実をそれでもぶっ飛ばして前に進める力の在り方の一つがロックだったはずなんです。

ロックという在り方は前世紀にほぼほぼ偉大な先人達に開発されきってしまいました。
今世紀では出来上がったロックという基盤を元に新しい時代の音楽が芽を出しています。
「ロック」という音楽ジャンルはもはや新しい芽に栄養を吸いとられるだけの、死体が腐って分解されて地面に吸い込まれて新しい命に繋いだ「過去のもの」になっているのかもしれません。

でも僕ら当事者としてそんなことはどーでもいいはずです。
「ロック」の在り方とはそんな文章だけで説明しきることが出来るほどの陳腐なものだったんでしょうか。
いつの間にかその陳腐な既存の在り方に寝転んでパジャマパーティーして談笑してるようなものになっていたのは何故なんでしょうか。

いやちげーだろ。
「ぶち壊してやる」「ふざけんなくそったれ」
そうぶっ飛ばせる在り方だったはず。

今生きている時代に対する問いかけのロックを俺は絶対に忘れたくありません。
だってパジャマパーティーのロックなんて僕にとっては一番つまらないんだもん。

いや、ロックの出来上がったイメージに対するアンチテーゼとしてのパジャマパーティーロックならまだしも、それがロックのメインになったり皆が原点を忘れるのはまたちげーだろって。

これからも僕は僕の思ったことを表現するただその為だけにロックをしようと思います。


一言とはなんだったのか
どっこい

近況報告

凄まじい勢いで夏から秋に移行しており、気温の変動がえげつないことになっています。
おかげで体があんまり季節に追い付いていません、
どうもこんにちは岩山泰輔です。

今年が始まって早九ヶ月と半月。高校卒業から毎年毎年時間が過ぎるスピードがはやくなってますなぁ。
そんな2019年も残り三ヶ月弱、ちょっと最近の近況報告をしてみようかなとば。



ソロの岩山泰輔主体で活動を始めて五ヶ月、この期間は色んなことを知ったり学ぶことが多かったですねー。
なんとも節操なくあれこれ好き放題手を出してみた五ヶ月間でした。

一人で劇的★ミュージカルロックライブしたり、路上で一人EDMビジュアルロックをやってたりそれをしながら福井東京区間を四日間旅したり。
サポートメンバー(みんな大好き正光君)と一緒に二人でライブをしたり、初めてローディーの子と一緒にライブをやったり。

自分の実力や志向性をすごく実感した日々でしたね。
最近はあまり熟睡できなくなりました。
去年までに比べて、たぶん少しずつ見える視野が広がったり、うっすらとしていたものの実体がはっきり見えてくるようになっているんでしょうね。正直見えてくるものの重さに心が気を許さなくなってきてるのかもしれません。

布団に入っても二時間くらい寝付けずに悶々として、早朝四時五時になってようやく体が自動的に寝てくれるのを待つ日も、以前に比べて多くなってきています。
しょこくんも似たようなことを言ったりしているのは、彼も似たようなことを感じているのかもしれませんね。

なぜ自分は音楽を奏でるのか。
自分は音楽をすることによって、人生を生きることによって何をしたいのか。
やっぱりずっと頭のどこかでそこの答えを求めようとして、気が休まっていない感覚がずっとあります。



正直今はプロでデビューをしたいとか、どこどこのアリーナやスタジアムでライブを出来たとか、そういうことがモチベーションには全くならなくて。
いかにワクワクすることを考えるかそれをやるか、それにどれだけ命を懸けたいと思えるか、その視点がすごく今の自分には改めて重要になってきています。

自分がワクワクすることをどうせ全力でやるなら、少しでも多くの色んな人と共有したい。
どうせ真剣にやるなら、真剣にやったことに刻まれた自分の美学が、少しでも誰かの心に刺さって欲しい。そしてその機会が少しでもあればいい。
そういうスタンスになってきた、あるいはそういう自分のスタンスに自覚的になってきました。


木田とのコラボで幕張でライブをやったときから、あんまり東京ドームでライブをするんだ!とか国立競技場でライブをするんだ!CDをたくさん売ってランキングの上位にいくんだ!
的な関心が自分のなかで全然魅力に感じれないようになっていったんですね。

そこでライブをすること、その行為をすること自体にそこまでテンションが上がらなくなってきました。

だから、世間のなかで持ち上げられる「いかに成功するか」とか「いかに成り上がるか」っていう内容に、言葉に対するロマンは感じても感情移入しきれなくなってきて。
というかたぶん、木田マーチングの子供たちとそのスタッフの皆さんとで作り上げた幕張メッセでのライブをやったときに、周りの人々や世間がひたすら崇拝する「成功」「勝利」っていうものの弊害を感じてしまったからなのかな。

枠の中の「成功」、誰かが用意してくれたり手渡してくれる「勝利」の価値をすごく疑うようになって。
それは権威の元では誰もが認めるまさに太鼓判や御墨付きになるんでしょう。
でもそれでだからなんなんだろうって思うようになったんですよね。 

誰かが定義し授与してくれる「成功」に一体どれだけの価値を感じるべきなのかって。
ひねくれているから、言葉にままにどうしても受け入れられないんですよね。

「成功」や「勝利」というもののその指標や定義を、誰かがくれるのを嫌がって自分で見つけたいと思うから、無条件の「世間の成功のイメージ」がくれる安らぎを感じれなくなったのだったりして。

今は自分が本当に納得できる「成功」を自分で探してみようと思います。
なので、当然世間の皆々様が手を上げて喜ぶことよりも「なんでそんなもんやってんの?」「そんなもんやって意味あんの?」ってことのが今後もより一層やってくかもしれません。

でもいーじゃん。だーれも俺の人生の責任なんか取ってくんないし取りようがないんだもん。
みんな自分の人生を完遂するので精一杯なんだから、僕もそれに全力で取り組んでいきたいでござる。



近々、ここまでの僕の活動の集大成とよべるイベントを企画して、発表しようと思います。
これがもし成功すれば、もしかしたら誰もみたことがないエンターテイメントの新しい在り方、その雛形を作って皆さんにお見せできるかもしれません。少なくとも日本で似たようなものはあんまり聞いたことがないし、企画の相談に乗ってくれる人達も異口同音に「それは見たことがないものだけど、面白そう」っていってくれてます。

ただ、その中身っていうのが前例がないゆえにほんっっっとに手探りです。
誰も問題集の答え合わせのごとく解き方や進め方を指南してくれそうな気配は少なくとも僕の周りではありません。
今のライブハウスやロックの潮流とは真逆のものであるのは確かです。
けど僕は基本的に自分がワクワクできる生き方をしていたいです。

誰になんと言われようと、自分の美学を貫いていきたいと思いますし、たぶんそれが結果的に皆さん的には面白いものになると思います。

では、はやくそのイベントの中身を皆さんにお知らせできるように、頑張って参ります。岩山泰輔でした。



ねよ

『ロックスター』

お盆が終わり、8月も残すところあとわずかの今日この頃。
皆さんいかがお過ごしでしょうか、岩山泰輔です。

とにかく暑いですね。室内にいてもエアコンなしではいれないような暑さ。水分補給と室温の管理をして熱中症にならないようお気をつけくださいませ。




今回のブログのテーマは『ロックスター』です。
『気合い』といいかえてもいいかもしれません。
僕の目標であり、夢は自分にとって最高の『ロックスター』で居続けることです。
ただこれってすごいめんどくさいことで、めんどくさがり屋の僕にとってはなかなかしんどい夢です。

例えば、自分にとって最高の作品、最高のショーを作って、それをお客さんに届けたとして、少しずつお客さんの抱く『岩山泰輔像』と僕の本来持ってる『岩山泰輔像』が剥離していくんですね。

僕のショーって結構劇的なパターンが多いですから、僕も日常生活の中で持ってる自分の要素を、短時間に一億倍に濃縮して表現してます。
だからショーで見せてるものは間違いなく自分の中にあるものから選びとって見せているんですけど、それが凄く過剰に肥大化してお客さんの手元耳元に届くんですね。

そうなると、次第に僕の思う『岩山泰輔のするであろうアクション』とお客さんの思う『岩山泰輔のするであろうアクション』がすんごい差があるようになってく。

その誤解って、すんごいめんどくさくてしんどいんですよね。

でもこれって、何もこういうステージアーティストだけにある話じゃなくてお客さんとか人が普通に生きていても起こる話ですよね。
他人とコミュニケーションをしようとすると、「本来の自分」みたいなものだけでは相手との対話が難しくなることって、あると思います。
そもそも「本来の自分」ってなんなんでしょう。
相手と会話してる時の自分の振る舞い方が、1000人と接してて1000人皆一緒な人ってなかなかいないんじゃないかな。

いる人はいるんだろうけど、この情報過密社会の中で生きていくんであったら近い将来自爆しそうな気がする。


僕がステージ上でお客さんに向けて表現するときは、自分の強い思いとか伝えたいものを表現するから、どうしてもそのニュアンスが多少濃い目になります。
皆さんもきっとそうでしょう。友達に「お腹減ったな」っていいたいとき、自分の内心以上に強いニュアンスで「腹減ったな!」っていっちゃうようなことって、やっぱあるでしょう?


だから誰しも「本来の自分」ってうまく掴みづらいし、ぶっちゃけあるかどうかもわかんないようなものだと思うんです。
そして自分とは別の他人が思ってる「自分の印象」なんて、めちゃくちゃ不確かなものなんでしょうね。


過去の話をすると、最果テの時なんてそんなことの連続で。
僕の隣の人に向かって、ライブの時の「岩山泰輔」がどうだったかを語る「目の前の「僕」に気付かない人」もいましたし。
下手したらバンドメンバーの中ですら「アーティスト岩山泰輔」のイメージが強すぎて「岩山泰輔」の印象がめちゃくちゃ偏ってた奴もいたし。

「ロックスター」なんてどれだけの誤解をされて生きていくんでしょうね。
格好いい衣装と格好いい演出に包まれて、歌を歌って日々を生きて。
今の僕の比ではないんだろうということは思います。



自分が思う「自分」と、他人が思う「自分」なんて、本当に不確かなものなのかもしれない。
それでも僕は、やっぱり「自分」の心から湧き出してくる「自分の願い」ってすごい大事にするべきだと思います。
それはめちゃくちゃ不確かなものだと思うんですよ。
言葉を尽くして心の動きを説明できたと思ったら、全然論理もへったくれもない自分の行動に振り回されることもあって。

それでも、自分の中にある「論理があるものもないものも」やっぱり完全に否定ってしないほうがいいと思うんですね。

たとえわずかだったとしても、言葉で説明できなかったとしても、自分の心が思う自分の行きたい所へやっぱり行くべきだと思うんです。
それが他人や社会や世の中にどう受け取られるかは、説明するなり、もうどう受け取られてもいいって腹をくくるなりして。

誤解されるのってめちゃくちゃしんどいです。
「俺はこう思ってるのに、なんでそれをそのままわかってくれないんだ!?」ってめっちゃしんどいです。
それでも、誤解されることを恐れて自分の行動を落ち着かせるより、誤解されても自分の思う意思を表現したほうがいいと思います。
それでも自分の意思を貫いたほうがいいと思います。



僕は最果テの頃、自分を「ビジュアル系の人だ!」って認識されるのが正直めちゃくちゃ嫌でした。
自分が影響されてきたのはX JAPANLUNA SEAでL'Arc~en~Cielで、、、って背景を込みにしても嫌でした。

自分は洋楽のあの質感が大好きだし、単にエンタメなだけでは終わりたくないし、XもLUNA SEAラルクもきっとあくまで誰かの真似ではなく自分達を貫くために音楽をやっていたんだろうしって、そんなこんなで「ビジュアル系だ!」って誤解されるのがすごい嫌だったんですよね。

だからDMIではとにかく洋楽的な質感に憧れたし、その志向は今も強くて。

でも最果テの頃の、自分にとっての誤解をきっかけに出会えた人とか、そんな誤解を招くほどの強い自分の表現欲求からやれたことも、振り返るといっぱいあったことに最近気付いたんですね。
「ロックスター」を目指すが故に生まれた誤解が、自分助けてくれたり強く成長させてくれたこともいっぱいあって。

だから、これからの僕は他人からの誤解を恐れるのではなく受け止めて、自分の意思を強く表現していこうと思います。
バンドの編成でのライブもっと増やして、もっと自分の美学を追求していこうと思います。
それを他人にどうこういわれたとしても、「知るかぼけ」でぶっ飛ばしていこうと思います。
それでも、俺自身の覇道を歩んでいきたい。



世界の全てが俺を否定しようと、俺は俺の道を行く。
俺は誰のためにも戦っていない。俺は俺のために戦い、自分の意思を誰かに伝える。そのために生きる。

そしてお前にも出来ればそうあって欲しい。たとえ全ての哀しみがお前を苦しませようと、お前はお前の信じる道を歩んで欲しい。

気合いを入れろ。お前の信じるものはなんだ?
ないなら探せ。この世界は輝きに満ちている。
「お前自身」を作るのは誰かじゃない、お前なんだ。
お前が全ての物語を作る。
お前にはそれだけの力があるはずだ。
世界を変えるだけの力があるはずなんだ。

俺は俺の「ロックスター」を目指す。
お前はお前の道を行け。



I'm not a fxxking Rockstar.