iwayamarock’s diary

シンガーソングライター、岩山泰輔のその時思ったことを書いていくブログです。

ベストを尽くすこと

日本列島を覆い尽くすほどの台風が来ているみたいですね。
どうかこれを読んでいるあなたもご自身の身の安全のため今出来る最大限の努力をお願いします。

みなさんこんばんは、岩山泰輔です。
日本列島がこのような状況の中、このような個人的な文章を書いてネットの世界に放ってもいいものかしばし考えましたが、もしかしたら今だからこそ必要なのかもしれないとどこか頭の中で考えている自分がいます。
そのような過剰な自意識や自尊心の元にこの文章を書き起こします。

今日のテーマは「ベストを尽くす」。



僕個人の話をします。


僕はずっと、どうして自分がここにいるのか。どうしてあのとき大切だった誰かや何かはもうここにいないのか。それがずっと自分の表現の発端として音楽の活動してきました。

おそらく誰もが、どれだけ楽しかった瞬間や記憶、思い出が存在していてそれを永遠だと思いたくても、時間や巡り合わせがそれを全部過去のものにしてしまいます。

僕はそれでも自分の心の中にあった空白を埋めるため、あるいはもともとあったパーツを取り戻すために歌を歌ってきました。




ですが皮肉にも、僕や多くのアーティストがこれまで自分の作品を通じて世の中に発信してきた「前を向け、歩き出せ」という思いによって始まった行動が、時に過去をより過去のものにしていきます。

もどかしいもんで「もっとよりよき世界を!」という思いが今ある環境や世界を変えていっちゃって、ふとその「より良くなる前の世界」を懐かしがろうと思ったら自分で自分の元の世界を過去にしちゃってたっていうジレンマ。

そういう物事を知らなかった時の僕は、自分の描く最高の景色や理想を手に出来たら、無上の喜びや最高の幸せがずっと続いてるのだと漠然と思っていました。
だから最果テも頑張ったし、そこに至るまで過程も頑張れたりしたのかもしれないですね。

だけど少なくとも僕の場合はそうじゃなかったです。
いや、確かに2018年の3月10日の最果テラストライブのとき、僕は無上の喜びと最高の幸せを手にすることが出来たんです。自分が最初にたどり着きたいと思った風景での終わりじゃなかったとしても、人生の中でのかけがえのない盟友たちと最高の瞬間をあの日は過ごせたんです。

でもそれは永遠じゃなかった。生身の人の営みである以上、絵本みたいに「皆幸せに暮らしましたとさ」で終わりようがなくて。

人生はまだあの日で終わらなかったし、あそこにいたバンドもスタッフも観客もその先が続いていたんですね。

あの最果テのラストライブで今思うと、それまで抱えていた僕の人生の葛藤とか難問が、ある程度のところまでカタがついてしまった気がします。
それまで自分が求めていた「なんで自分はここにいてあいつはここにいないのか」っていうものへの答えが、あの日大体なんとなく自分でも納得できる形で完結しちゃって。
エンディングはむかえたもののじゃあどうする?って。


簡単に言うと創作する意義がわからなくなっちゃって。


もちろんクオリティの面ではまだまだ出来ることなんて一億倍ある出来だったのかもしれないんですよ。
でもクオリティなんてそんなものは表現の根本のところにある問題と比べてしまえばちっぽけで時間さえかければどうにでもなっちゃう気がして。
新しいことも新しい可能性も取り組むことにはワクワクはしてたけど、一番大事な「どうしてそれをやるのか?」の主体性がどっかにいっちゃって。

しかもこのブログで重ね重ね皆さんもうんざりするほど読まれている通り、全然ある界隈や業界での成功やそれを裏付ける数字自体には全然テンションが上がらなくて、余計何をすればいいかわかんなくなっちゃって。

だからもうよくわかんないテンションであれこれ手を出して。

でもバンド解散以後やったことどれもあんまりぴんとこなくて。
やることがなくなっちゃった。

いや、DMIや木田マーチングバンドやソロとかの活動で出会えた数々の仲間がいてくれてます。
彼らには何度もあらゆる場面を助けてもらってます。
これを読んでくれているあなたにも本当に感謝してます。

でもそれと同じくらい一人の人間として、自分の中の核、主体性がなくなることの空虚感が気持ち悪かったです。

せっかく最高の瞬間を体験できたのに、もう自分の人生の一番の瞬間が終わってしまったような感覚がとても変で、こっからさきの人生どう過ごせばいいのかわかんなくなっちゃってて。
え、もうこっから先は更新できないのかな?みたいな。
それならこの人生やってる意味あんまなくね的な。

最果テが終わってからの僕の音楽制作はそれまであった哲学的疑問を表現するものとは別に、少しずつ「今の時代にフィットする音楽ってなんだ?」を基盤に進むんですけど、どっかの時点で自分がバンド大好きな人間であることに気付いてそれもなんだか変になっちゃって。

そしたら別の現実が転がってんですよね。

正直バンド音楽なんてものは20世紀内で大体カタがついちゃってる文化だと僕は思っています。
だってそっからさき全然変革らしい変革起こってないですもん。アンサンブルの変化とかテクノロジーの進化とかそんなもんは目先耳先のものであって、その中身自体はなーんにも変わってない。

だから僕が大好きなこのバンド音楽も、21世紀2019年現在過去の遺産です。
だって新しくて変化してるのは、相対的にどう考えてもヒップホップやEDMやロック以外の音楽だと思いますもん。
日本はすごく特殊なシーンだと思いますからバンド音楽が独自の生態系を持ってますけど、アメリカや韓国のアーティストが華麗に奏でる最新のポップ音楽聴いたらぶっ飛んじゃって。
「ぜんぜんこっちのがかっこいいやん」って。
少なくとも僕らより若い小学生の女の子ですらジャニーズより韓国のポップアーティストの作品に興味が傾いて、ハングルを自分で勉強するくらいです。

答えは単純に向こうの方がかっこいいからだと思っていて。

そんな状況で自分がバンド音楽を大好きでいることに逆に嫌にもなりました。
「え、これ前世紀の遺物やん」
「大好きなLUNA SEAの一番盛り上がってたときですら1990年代やん」
「え、じゃあ俺に何ができんの?」
「俺は結局なんにも新しいものを作れんの?」
「そんな自分にとっての絶頂ですら最果テで終わり?」
「バンド好きな自分が、バンドが新しくない時代、バンドが大して求められてない時代で何がやれんの?」
ってなってまして。

DMIが今振り返っても結構面白いバンド、可能性のあるバンドなのは間違いないんですけど、やっぱ僕は「気合い」とかずっと叫べるバンドが大好きで。

最果テは完全に突然変異なんでそもそも比べようがなくて。
やっぱどう足掻いても最果テは僕にとってすごく特別なバンドです。
ちょっとこれから他に新しいバンドを組もうってなると全然浮かばないくらいには特別なバンドです。


でもその最果テも前に一回一段落自分でつけちゃって。
その後の、新しいものがどんどん出てくる世界で、

「え、もう俺って古くて、終わったの?」

って、どっか自分の思いがずっとラストライブ以降ありました。




ゲロ長い自分語りですがもうしばしお付き合いを。


ここまでの僕の体験したことって、形を変えてたぶんいろんな人が体験してることだと思うんですよ。

最高の人最高の幸せだとおもって結婚した人が、そのさきで挫折せざるおえなかった、とか。
せっかく長いことの目標だったものが、いざ果たすと嫌なところばっか見えてくるようになった、とか。
自分が夢見てきた理想といざ到達した現実にはあまりのギャップがあった、とか。

僕が体験してここで吐露した自分語りの内容も、これまで何億もの人類が形を変えて体験してきたこととなにも変わらない。

そしてその中で、「世界を救う」とか「世界を変える」なんてものを個人の思いをもって個人の力でどれだけ果たそうと、すぐ過去になっていく事実も変わらない。


じゃあ一番いい選択というのは最高によいと思えたその瞬間に自分の人生をそこで終えることなのでしょうか。
エンディング迎えた瞬間、クリア後にいくのではなくそこでセーブデータを止めておけば良いんでしょうか。
だって守りたいと思ったものも、大切だと思ったものも全部次の瞬間に過去のものになり始めると思うんです。
せっかく大団円を迎えたのに、わざわざそのさきなんか行かなくたっていいんでしょうか。


大切だと思ったものを守っていくのは並大抵のことではないんでしょう。守りたいそれも、守りたいと思ったその心も次の瞬間から変化が始まる。
その結果もしかしたらいつかそれは時間を経て「守らなくてもいいもの」になるかもしれない。
守る必要がないもの、守る気も起きなくなるもの、そういったものになっていくのかもしれない。
いやそもそも突然どうしようもない巡り合わせによって守るものと守られるもののどちらかもしくは両方が、突然ふっといなくなってしまうかもしれない。

なら、まるでゲームや1つ物語のようにエンディングで全てを終わらせてしまえばもしかしたら一番よいのではないか。

物語の登場人物の全ても、その書き手も、全てある瞬間でなくしてしまえばよいのではないか。

俺は、自分のストーリーが「完結」したと思ってタイトル画面に戻ればいいんでしょうか。



でもそうはならないんですよ。
寝て起きても、そこにはタイトル画面もニューゲームもロードの項目もなくて、ただ「生きてる」っていう、自分の生命活動が続いてることを認識させられる事実だけが残ってる。
解釈のしかたは人それぞれでしょう。
一個のストーリーの入ったゲームカセットをクリアしたと思ったら、別のストーリーの続編が入ったカセットの物語が始まってるのか。
いや、すごく長い壮大な叙事詩を、改めてニューゲームしてプレイしようとしてるのか。

いずれにせよ、人生のどこかで「最高の瞬間」なんてものを体験したくらいでは、人生は終わってくれないみたいなんです。
方向を変えて「どうぶつの森」で仲の良い村民と悠々自適ライフを送ろうとしても、なんかの拍子にさっさと村民が引っ越してくか、ゲームカセット自体どっかになくしてしまったりするのかくらいはこの「人生」という代物はややこしいらしく。

ならとりあえず今生きてるこの瞬間で出来る限りのベストを尽くすのが一番っぽくて。

例えポケモンはソードとシールドが発売前でダイヤモンドやパールが10年以上前のものだったとしても、ダイヤモンドやパールの発売まで時間を巻き戻せないとしても、過去がどんだけ眩しく見えたとしても、
ダイヤモンドやパールの面白さを自分なりに噛み砕いて魔改造しながら新しいゲームをプレイしてくことはできるはず。


それが結局自分が嫌だった「過去の遺物」に沈む行為だったとしても、自分の出来ることをやればいいはず。


俺が仮に何かの基準の上で「終わってしまった人」「過去の遺物の人」だったとしても、まだ俺が生きているこの人生は終わってないんですよ。
それはもしかしたらこれを読んでるあなたも。

最高の過去はすぐにただの過去になるんです。

だけどだからって終わるわけにはいかないんですよ。
終わる必要だってないんですよ。

俺の過去の物語は全部、過去に一つ一つなぜそれが起こったのかのきっかけ、原因がありました。
それらが芽を出し枝分かれして葉をつけ花が咲いてやがて種を残して枯れていったとしても、その全てには何か1つの始まりがあったんです。

だからきっと、これから先もその何かの1つの始まりを見つけ出していけるはずなんです。
俺やあなたが過去に心踊らせてきたあの冒険、あの友情、あの恋もあの奇跡も、全部これから新しく探していけるはずなんです。
少なくとも生きている限りは。


俺は結局古い人間なのかもしれません。終わってしまった人なのかもしれません。次の時代に必要とされていない人なのかもしれません。
それでも俺はロックが、バンド演奏が好きです。
気合いと叫んでバカをやってるのが好きです。

自分がどんな人間であろうと、どんな形でも自分の生きた証を人は残せるはずです。
人はどんな絶望的な状況の中でも、それぞれのやり方でもう一度立ち上がれるはずなんです。



俺が1つの種としてこの世に生まれてから21年、俺の人生の花みたいなものはもしかしたらもう咲いて枯れ始めちゃってるのかもわかりません。

だけどそんなことは本当は関係ないはずなんです。
誰がどう俺らの過去にどうこう言おうと、俺らは今この瞬間自分の思うベストを尽くすべく生きていけるはずなんです。



これからは自分の作る音楽が古かろうと新しかろうと、自分の心や誰かの心を真に震わせれる音楽になるよう最善を尽くしていこうと思います。
俺の物語が過去に1つ完結していようと、新しい物語を見つけ出すために自分のベストを尽くそうと頑張っていこうと思います。

周りなんか本当は関係ないですよね。
自分のベストを尽くした行動によって誰かとぶつかったとしても、そのときはそのときなりのベストを尽くします。
そしたらきっと、次はぶつからずにすむベスト、あるいはまたぶつかる日までお互いが尽くすべきベストが見つかるでしょう。
そしたらそれがきっと、次のそれぞれの未来を描いていくと思います。

だからきっと世界なんか変えれなくても、救えなくても、それでも出来ることはあるんでしょう。


俺は俺の道を行く。
お前はお前の道を行け。


では。