iwayamarock’s diary

シンガーソングライター、岩山泰輔のその時思ったことを書いていくブログです。

偽りの光に閉ざされたこの世界

今回は、ある種の危機感を感じての投稿なので、前置きなく文章を起こさせていただこうと思います。

ここ数ヵ月間ソロの活動を始めてしばらく経ちますが、その間に感じた「閉塞感」について書きます。

今の社会においては、何かを発信する際「エンターテイメント」であることをなによりも重要視する傾向にあるのではないかと思います。荒い語り口ですが、「誰かを楽しませるためのもの」でなければ表現が許されない、それが暗黙の了解であるような空気感を感じています。

「エンターテイメント」が素晴らしいものであるということは真実だと思います。
人の喜びを作り出し、それによって人の心を奮い立たせ、精一杯生きる日々を応援できるものがこの世界でどれだけの人を救ってきたのか、それはとても尊いものだと思います。

しかし過ぎた薬は毒になるのではないでしょうか。

「事実」「本質」「真理」などというものは、表面上に浮かぶ一つの物事、そこに見える様々な要素から「なぜその物事が起こったのか?」という疑問を経て、多面的多角的に順番に掘り下げていき、見つかるものだと僕は思っています。
その掘り下げの過程において、その掘り下げが誰にとっても手軽なもの、楽しめるものである保証はないし、しかしながらその掘り下げを経てたどり着くことが出来る答えであるからこそ、改めて表面上で起こった物事を見ているだけではわかりえないことがわかる。
そしてその答えがより良い未来やより良い物事を生み出して行くことに繋がるのは良いことなのではないか、と思っています。
まるで毒が時には薬となるように。

しかし、今の社会ではこの掘り下げという行為を行う者から淘汰される、あるいは掘り下げるということを行わせる余裕が持てないほど多くの物事に呑み込まれそうになるという状況が多々あるのではないか、と僕は思います。

掘り下げることによってわかることの多くは楽しさや手軽さといったものからはかけ離れていることが多いのが現実だと思います。
しかしそれを許してもらえない、目の前の手軽さに心奪われたままでは果たして本当に良いのでしょうか?
ずっと健康補助食品だけを食べ食生活を維持している先の未来がどう映るかは明白だと思います。

僕達は今、身近な手軽さという罠に緩やかに首を絞めつけられているのではないでしょうか。
手軽さを重要視する世界が、本質を直視すること、ある種の「本当のこと」を言ってはいけない空気感を醸成している一因なのではないでしょうか。

何が真実で、何が虚構なのかの選択は、決して全てを誰かに委ねるべきものではないと思います。
それは己の運命を誰かに操られる可能性を孕んでいると僕は思います。
物事の真理はいつだってシンプルで一言で言えるようなものだと思いますが、しかしその一言に行き着くまでには、いくつもの問いかけの繰り返しが存在していると思います。
シンプルな一言は安心感と手軽さを持っていますが、その一言が持つ意味をやはり人は考えるべきなのではないでしょうか。

ここに書いたことはあくまで僕の個人の意見であり、世界がそうあるべきなどという意図を持って書いたものではありません。
しかし自己と他者は本質的には平等であると僕は思います。ここにある文章と考えは、僕が確かに持っているものです。


僕が好きな言葉を最後にのせてこの荒い文章の羅列を終えたいと思います。

「言葉を信じるな、言葉の持つ意味を信じるんだ」

俺の信じるもの お前の信じるもの

7月に入りより気温も湿度も高まっている今日この頃。
どちゃくそあついね。
エアーコンディショナー必要だよこれは。

しかしなんとも、
上がるときは上がり下がるときは下がる、
誰がなんと言おうとも猛烈果敢に我が道をいく、
そんな圧倒的自由度を誇る天候さまによってライフは凄まじいダメージにひれ伏さんばかりの振り回され具合ですが。

皆さんのお身体は大丈夫でしょうか?
僕のライフはもう0です。





そんなわけで今日久々にお届けするこのブログのテーマ。
それは「俺の信じるもの、お前の信じるもの」です。



世の中いろんな考え方や価値観や生き方をもった人々がそれこそ70億人いますよねー。
すごい話です。

自分の人生だけ見ても色んな密度を持ってる登場人物が存在してるわけじゃないですか。
自分を生んだ父親や母親に、そのじいちゃんばあちゃんに、そのさらに上のじいちゃんばあちゃんに、
あとたまに変なことをして遊ぶような友達たちに、
めっちゃ好きだ!ってなるような自分の好きな人に。

自分の周りだけでもこれだけじゃ数えきれないような人達がいて、さらにそんな人らが、視点や立場を変えてそこら中の民家やビルやお店に、国境や海をこえてひたすら存在することによってその数70億を越えてくという衝撃。


すんごいよねー、しかも皆それぞれのここに至るまでの起承転結を持った物語があるという。

なんかやばいよねー。


皆が自分の好きなもの信じてるもの、嫌いなもの許せないものを持ってその人数なんと70億以上なんだもんな。

ふぁーってなっちゃうよ。
びっくりどっきり。
壮大すぎて言葉も出ないぜ。

だって皆すんごいでかい傷を受けたこと、生きてて1つや2つはあるでしょ?
こんな傷の痛み、誰もわかるわけねえだろってなるくらいに自分の痛みとかある人はあったりするわけじゃないですか。
もちろん個人の痛みを他人が推し測ることなんて出来ないしそれはあくまでそれぞれの主観としてって話だと思うんですけども。



ともかくもう、そんなそれぞれの世界を持つ70億人もの圧倒的な人数がこの地球上に存在していると。

そりゃ、自分と違う意見とか、自分と違う価値観とか、自分と違う好きなものとかも当たり前にある数字なんじゃないかなーって思っちゃうわけで。

いやあれかな?
変に70億とか、若干手が届きそうに見える数字だから、皆で考えてること一緒にしたくなっちゃったりするときもあんのかな?
桁も億や兆とかをこえて京や垓までいけば、
「さすがにこれは色々考えたりコントロールすんの無理あるやろ」ってなったりするのかな?



いやですね、ネットというものがこの世界に普及してそれこそどうやら20年くらいになるそうなんですけども。
僕自身はネットってもう神様の領域だと思ってまして。

だってネットサーフィンをすればそこら中に、色んな意見が並んでるわけでしょう?


例えばさぁ、


「これ安いぞあれめちゃくちゃ質が悪いわあの人のことめっちゃ大好き憧れるクソ雑魚ども死ねこれ高いけどいいものですよー買って~~が最高にクズな件についてこのお菓子はうまい芸能人が誰々と不倫その真相は山綺麗スーパー新しくできたわあの人に会いたいあの人と生きたいそろそろ終わりにしたいなぁ私に今幸せですあいつ早く死んでほしい新作のあれめっちゃいいんだほんとに皆見てやっとクズが死んだ旦那に先立たれたちょっとしんどいやっとデビューしたぜ長かったなぁ引退しました自分の生きる道を探しますあのお菓子はうまい昨日のイベントめっちゃ楽しかったあの人最高私達出会って大分たつねずっと友達だよあのクソとなんで友達だったんだろう皆仲良くしようそろそろ眠いで寝ようかな今日も12時間働いて明日は六時出勤か今日のこと絶対に忘れないよあれあん時おまえいたっけ」



これ一度に短期間に見れる環境ってすごいよね?
やばいよね?
吐きそうだもん。
それは、気が狂いそうになるときもあるじゃんね?
これをひたすら見れる環境あるなら。
逆にしんどいのはさ、自分のみたいもの望むものも一緒にそこに並んでて、その隣に真逆のものが転がってたり自分の望むものを否定してるものが転がってたりすることじゃんね。
しかも全部ある種のリアリティーを持ってるっていう。
掘り下げてみると、そういうその人のネット上での発言に至るまでの過程とか環境とか歴史が垣間見えてくるってのがしんどいよね。

そんなのもう人の次元じゃないと思うもん。
いちツールを超越してんじゃん。
神様体験マシーンだよほんと。
空から皆の生きてる様を見させてくれるの。
そこからは色んなとこを見させてくれるし、望みも叶えてくれるの。
だけど発狂して脱落しても「はい人間様お疲れさまでしたー!」ともいってくれない。
なかったことのように他の人も神様体験マシーンに乗るっていう。

だけど乗ってるときは神様の気分になれちゃうからさ。
あいつのやってることは許せないわ、この世から除外させちゃえっともリアルに思わせてくれると。
空の上から他の生き物に向かって「君いらないから消えて」といえちゃうと。
実際は空の上からじゃなくて画面の前からなんですけども。



だから、もうなんかさ。
所詮人は人なんだからさ。
誰かを否定しても残念ながらきりがなくて。
否定することを続けることというかね。
だって皆、さっき書いたようにそれぞれのドラマを持ってるじゃん?

皆それぞれのここに至るまでの起承転結を持った物語があるという。
皆が自分の好きなもの信じてるもの、嫌いなもの許せないものを持ってその人数なんと70億以上なんだもんな。


そんな人らが、視点や立場を変えてそこら中の民家やビルやお店に、国境や海をこえてひたすら存在することによってその数70億を越えてくという衝撃。

自分の人生だけ見ても色んな密度を持ってる登場人物が存在してるわけじゃないですか。
自分を生んだ父親や母親に、そのじいちゃんばあちゃんに、そのさらに上のじいちゃんばあちゃんに、
あとたまに変なことをして遊ぶような友達たちに、
めっちゃ好きだ!ってなるような自分の好きな人に。


だから、一周まわってさ。
自分の信じるものを信じる生き方に向かいあってこうぜ。
そうしてる間なら、残念ながら人は他人の信じてるものを踏み潰そうとする生き方を選択できなくなる程度には頭の要領やCPUが足りてない生き物だとおもうんで。

自分が人間でよかったよ俺は。
だってさっきの、句読点もなけりゃ前後の説明もないような文章をずっと見てる義務なんて別にないんだからさ。

俺は俺の信じるものを信じる。
お前はお前の信じるものを信じて。

では、また。

近況報告

性懲りもなく音楽を続けております、岩山泰輔です。
今日はですね、ここ最近の近況報告をぱぱっとさせていただきたいと思います。

最近、ソロが忙しいです。
忙しいです。

ほ ん と う に
い そ が し い で す。

やるぞやるぞと蓋を開けてみればマァ、あれやこれやと課題課題のオンパレード。

「限りなく生演奏に近づける、ロックにトラップにモダンヘヴィにフォークにEDMな同期音源」
「それをバックにハイパーせわしないロックギターを弾きながら歌を歌う」
「ノンMC」
氷室京介とMIYAVIとDIR EN GREYBTSモトリー・クルーが一斉に入り乱れて躍り合うイメージ」
「(お一人様ライブ)」


意味がわからない。

当方ギターを最後にライブで弾いたのは2016年の初夏だったかしら。
てなわけで、なんとか人に見せても恥ずかしくない程度のレベルに至るまでなんとか修行中。
はてこれはゴールに辿り着けるのか否か...。

いざソロシンガーやるぞとのたうちまわってみても、自分の性分はやはりロックバンドにあるということを、やればやるほど確認していくかのような次第。
ギターを弾けば弾くほど、自分の好きな音楽はLUNA SEADIR EN GREYX JAPANでBring me the horizonでというのを実感していくところでありまして。

そんな人間がテイラー・スウィフトに憧れ、チャーリー・プースに憧れ、デヴィッド・ゲッタに憧れ、星野源に憧れ、米津玄師に憧れ、
挙げ句身の程を弁えずやろうやろうと盛り上がったその末路がこの私にございます。


そりゃとんでもなく歪になるに決まってるわ。


今の時点で出来た音源とかもちょちょちょちょっとネットに上げてはいるんですが、まだまだ自分のやりたいことの1億分の1しか実現できてないという所感でございます。

しょしょしょしょしょ。

なんとなくその音源を聴いてもらえれば、さっき書いた「氷室京介とMIYAVIとDIR EN GREYBTSモトリー・クルーが一斉に入り乱れて躍り合うイメージ」が腑に落ちてくるんではと思ってみたり。

躍り合うどころか殴り合い蹴り合いの喧嘩してるかもしれんな、これは。
ちゃんとやったら、やれたら、面白いだろうなと思ってまずは6/15 ロックオン、乗りきっていこうと思います。

ほんでは。

「型」というものについて最近思うこと

圧倒的花粉。
お洗濯ものにも見えない花粉。
換気に窓をちょっと開けても花粉。
お外にももちろん花粉。
見えない花粉が僕を襲う。

そんなわけで恐らく春です。ご無沙汰してます岩山泰輔です。

今日は最近思う「型」についてちょこっと書き込みをば。




型って最近めっちゃ大事なぁって思うことが多くなりました。
このときはこうする、こうすることが美しい、こうすることはあまりよくない、みたいなそういう型。

剣道とかなら上段と中段と下段を軸に攻めてきましょうねとか(剣道未経験)、そういう型。

カレーはバーモントの甘口だよとか、じゃがいも大きめじゃないとやっぱこう、とか、お肉はやっぱチキンかなぁとか、そういう型。

日本だと様式美とかっていう言葉ともはまっていくものなんですかね。
基本的に音楽に日常的に触れる機会が一般の平均値よりおおよそ少しは多いであろうわたしのような立場の人間が思考を吐露できる型なんて、無論音楽の型ぐらいしかないんですけども。

音楽の場合ジャンルという言葉にも置き換えれるんですかね?やっぱり。カテゴリーというか。
邦ロックならワンオクだろ! とか
ストリートパンクはやっぱハイスタだろ! とか
これまた無限に様々な意見があるのだと思いますが。

私の場合思春期の特に音楽にのめり込んでいった高校時代に、めちゃくちゃはまりにはまりまくったというか心臓ど真ん中撃ち抜かれたジャンルや型はやっぱ、いわゆる90年代ヴィジュアル系にあるわけでありまして。
そもそもヴィジュアル括りすんなとか、せめてV系と呼べとか、様々な意見もこれまたまたまたあるとは思うのですが、私にとってのその中でのやはり外せないマスターピースX JAPAN(X)やLUNA SEAであったりするわけであります。


それらを聴くきっかけというのは、Xなら紅、LUNA SEAならTRUE BLUEというハイパー王道ソングからそれらのリスナー歴をスタートさせたわたくし。
そこから芋づる式に他のアルバムを聴いたり、枝分かれするかのごとく他のアーティストの名前に辿り着いていくことになるわたしなんですけども。


ただ音楽をいわゆるプレイヤーとして始めたとき、自分の楽曲を作曲してステージでプレイを始めようとしたときは、たしかとても葛藤したことがあった覚えがあります。
自分の好きなアーティストを信望するあまり、自分の作る楽曲がそのアーティストらの劣化コピーになるのは嫌だぞ、というわりと恐らくよくある葛藤ですね。

やるなら自分の好きだったアーティストらの美学を自分なりに消化して自らの地肉にした音楽をやりたいんだぞ、的なことをステージに立つことを目指したときに思いましたね。

故にそれと平行した音楽リスナーとしての歩みが随分ひねくりまくった感覚があるわたしでございます。
LUNA SEAが好きなら素直にLUNA SEAの楽曲を順に聴いていけばいいのに、

「いや、ここでLUNA SEAばっか聴いてたら俺はLUNA SEAになっちゃうぞぉっ!!」
「ならばマリリン・マンソンはどうだ!」
「かっこいいっっっ! Slipknotも、いいぞぉっ」
「なにぃ、マリリン・マンソンはメイクはしてるからV系っぽいしガキっぽいらしいとの噂があるだと!」
Slipknotも皆聴いてるから結局誰かとおんなじ趣味趣向になってしまうのではないかっ⁉」
「畜生、ならばDEADENDだ!」
「なにっ、やっぱDEADENDもフォロワー多いのか、ならば(略)」

と、恐らく音楽リスナーなら誰でもなりうる
「孤高の音楽を聴いてる俺は凄い、かっこいい病」
にかかっていました。

やっぱ一度誰かが聴いてたりフォロワー宣言してると、嫌になって他のアーティストに鞍替えするファン心の欠片もない感じになってましたねー。
なんだかんだいって、全ての始まりだったLUNA SEAやXの回帰率というか、「やっぱお前がNo.1!」と聴き直す率を尋常じゃなかったんですけども。


ステージで自分がやろうとする音楽も、そんなだから節操ないというか、「なんでもありだ!」
ということになっておりまして。
少し脱線すると今から聴くと「なんでもあり」の割には、最果テの音楽とかはどっからどう聴いてもLUNA SEAやXの要素がつまりまくっとるやんという具合になっておりまして、あり余るリスペクト心を寿やこうきに音楽的にも実務的にも軌道修正してもらった感のある次第であります。


でも当時はいわゆる、様式美にはまりこむこととか、メジャーなものはやりのものを取り入れるのってどうなんだって意識が強く先行していましたけど、ここしばらく大分そこに対する意識が落ち着いて、型のあるものって素晴らしいなって思いが強くなってきてます。
やっぱり型があるゆえの頑強さ、骨太さ、ストレートさってあるんだな、刺さるんだなみたいな。
その場かぎりのものでなく、そこに至るまでの長い年月をかけて様々な人々が一つの抽象的な物事を実体化させようとした努力によってできた様式や伝統というのは、相応の強さがありますね。

結局メジャーを志そうとアングラを志そうと、皆おんなじ人間なんだなぁみたいなところに行き着く感もあったりで。

型って大事にしたいし、人と人とを繋ぐものになりますねやっぱ。
次の僕の活動も、ちゃんと型を大事にしてやってこうと思いますね、はい。

でも今度は闇雲に一つの自分の型を作るというより、死ぬほどたくさんの型を並べて誰かに提示する形にしたいですね。
なんでもありなんでもあり。

ではまた。

Dog mob incidentの解散について 未完

春の陽気が近付いてきて、大分過ごしやすくなってはいるものの、降り注ぐ花粉が全てを台無しにしていくそんな今時分、いかがお過ごしでしょう。岩山泰輔です。

薬がないとこの時期は本当にやっていられません。
鼻炎が凄くて、この間のDMI解散のライブも、鼻がずびずばになりながら薬をのみながらなんとかやっておりました。

最近薬変えて、それ以降大分鼻炎も収まってきたんですけど、めちゃくちゃ天気がいいときとかに外に居続けると、未だに目や鼻が大変なことになります。

タイトルのDog mob incidentの解散についてのここまでの一連の記事についてなんですが、これに関して最近色々考えてみたんですけど、まだメンバーとのこれまでの出来事とか共にやってきた事とかも踏まえた上で、解散を語るのがなかなか出来ないでいます。

まだ正直これを読んでいる方やDMIのファンの方に、解散した中で語るべき言葉がまだ自分の中で見つけられないでいる感覚です。

だからこの解散についての一連の記事はまだあくまで未完ということで、解散についてはここで一旦書くことを止めておこうと思います。

でもいつか必ずまたそれについて整理しつつ、ちゃんと語れる日が来ればと思います。


バンドの解散についての説明したTwitterの投稿でもあったんですけど、僕自身はこれからソロをやっていくつもりです。
ソロをやるなかで曲とかライブの世界観とか、正直まだよく分からないことは多いんですけど、たぶん面白くなっていくんじゃないかと思います。

ソロで結構大事にしたいのは、お客さんとのコミュニケーションをちょっと大事にしたいのがありますね。

っていっても、多分これを読まれる方が想像される「コミュニケーションを大事にする」という感覚じゃない方法を僕は実践していくのかなと思います。
なんというかこう、自分でもちゃんと大事にしているつもりでも、なかなか自分の性というか、うまく人と関わっていくのが苦手というか、どうしてもやることが周りの中で浮いたり、その中でどうしても取っつきづらくなったりすることも多いんですけども。

今後のソロの活動の中では、これまでと違った感覚で「自分の見る、思う世界」というものを表現していくと思います。
今までと違うのは、それをどうお客さんと共有するかをより優先順位を高くつけて向き合っていこうとする姿勢かもしれないですね。
ただ、そのときにお客さんや皆さんに接する自分は、これまで以上に自分の美学に嘘偽りのないもの、在りたい自分の姿にきちんと忠実でいれてるかどうかをすごくこれからはフォーカスを当てていくと思います。ビジュアル的にも音楽的にも。

これはソロでより深く表現したいことなんですけど、最近思うのは「どうして人間社会の中で人は、ある個人の人間に対して、一言二言のワードやラベルみたいなものを貼り付けて接しようとするんだろう」という疑問があって。

例えば「あの人は頭がいい人だからこういう行動を習慣付けているんだろう」とか「あの人は反抗的な人だからこういう事態になったときこういう行動を取るんだろう」とか、ある人間を一つの視点から見たときに感じる特徴とかを強くその人に貼り付けて、そこからその人がやる行動を自分の中で制御していくというか、想定していくというようなことって、よくあるとおもうんですけども。

最近だと元々人気だった人が、色々キメた後に「やさしい人だと思ってたのに」とか「結局はそういうことをやっちゃうんだね」とかっていうコメントを寄せられている様もそういう風に思うことがあって。
そんな一言二言のラベルだけで全て規定されてしまう存在なのかな、人間というのは、とも思うんですよね。

といいつつ、自分自身他の人をそういうラベル機能をつける目で見てる側面があることも感じますし。
そういう風にわかりやすく自分の頭の中で整理しておいたほうが、日常を過ごすなかで混乱したりすることは少なくなるだろうな、と思うんですが。

でもそれが行きすぎたり、そういうラベル機能のフィルターを通して他人に接するなかで起こるすれ違いとか苦しさとかってあるんじゃないか、それをないものとするのは違うなっていう思いが最近はあります。

自分自身、そのラベル機能ではくくれない部分があるから余計にそう思いますね。

その感情というか感覚を今は真っ先に表現したいですね。
まだまだソロがどうなっていくかは分からないですけど、後ろ向きにとらえるつもりも止まるつもりもないので、次はライブで会いたいですね。

それでは。

Dog mob incidentの解散について その2

iwayamarock.hatenablog.jp

 

 前回の続きです。

 

 なんだろう、どうでもいいけど今猛烈に福井市のつけ麺屋の是空が食べたい。

 福井県民バンドマンの聖地といっても過言ではないのではないですかね。

前のバンドのケインとかもう週2、3で通ってる時期あったって言ってた気がするし。

あいつもう是空に住めばいいんじゃないかな。

 

 閑話休題

 

 前回の記事で「(最果テの解散という)1つ区切りを迎えた時点で、僕自身どこにどう向かえばいいのかわからなくなってしまって」という文章があったと思うんですけど。

 その前の文で「「次はロックで、ポップで、カジュアルで、流行的であり親しみやすい音が鳴っている」音楽をやりたい」っていってるやないかと自分で見返した時に思ったんですが、

 たぶんここで書かれている「どこにどう向かえばいいのかわからない」というのは、音楽的な表現意欲とはまた別の観点の話だな、とも思ったので、それについてこの記事では触れて掘り下げていこうと思います。

 

 僕は基本的には、百年残る音楽を作りたいと思っています。

 これは学生時代に読んでいたXJAPAN(以下X)の色々な関連書籍でバンドのリーダーのYOSHIKIさんが語る同様の台詞が、確実に自分の発想の原点になっていると思います。

 

 百年や千年の時がたっても、人々の記憶に残るような、受け継がれていくようなそんな曲を俺は作りたい。

 

 その想いがまずあって特に最果テは進んでいったのではないかと思います。

それが前の記事でも触れた、一曲に数か月も時間をかけて作っていった一番の理由であったのかなと。 

 

 ただ、じゃあ一体何が百年残る音楽足りえる要素となるのか。

 メロディなのかコードなのかアレンジなのか歌詞なのか。

それを考えた時に、やっぱり一番必要不可欠なものは上述の要素を表現するうえでの根拠たる、「実体験」なのではないかと僕は思っています。

 

 そのメロディが表現しているものは一体何なのか。

 そのコードが表現しているのものは一体何なのか。

 そのアレンジが表現しているものは一体何なのか

 その歌詞が表現しているものは一体何なのか。

 

 所詮どれだけ流行りもののサウンドを鳴らしたところで、その背景にある思いがサウンドとして結実していないと、人々の心を揺さぶり、音の記憶として刻み、後世に受け継がれることはないと思います。

 

 ましてや、その背景の思いがかりそめのものだったとして、そこにどれだけ作り手の情熱、念、感情が籠っているのかと思います。

 自分が本当に体験し、咀嚼して吐き出していったものにこそ、美しさも汚らわしさも全てが混然一体となって、凄まじいまでの密度や重さを表現できる力があると思います。

 

 それこそが百年残る音楽の重要な核なのではないかと思っています。

 

 ここで最初の「どこにどう向かえばいいのかわからない」という話に戻ると、サウンド的には「ロックで、ポップで、カジュアルで、流行的であり親しみやすい音が鳴っている」音楽を表現できるよう、自分の力量や技術力を高め、鍛え、よりクオリティの高いものを目指すことは出来るけれど、

その背景の思いたるテーマ、核が、ある種最果テの2018年の三月十日のラストライブで浄化されてしまって、なくなってしまったんですね。

 

 「見上げた先は暗闇」の状況下で「緋色の空」に思いを馳せて「俺の痛みを感じてみろ」と言えるだけのテーマ、理由が、あのラストライブで浄化され成仏してしまった。

 最果テの曲に込めたテーマが何だったのかという話はここでは省きますが、その核がなくなってしまった以上、一体何を込めて曲を作り、何を歌っていけばいいのかという思いが、DMIの最初は去来しまくっていた記憶があります。

 

 そのゴールを見失った感覚がある意味、初期のDMIの【上】を目指すという一見わかりやすいようで抽象的なゴールの設定を行った遠因でもあるのかなと今は思います。

 

今回もこのあたりで。

 

 

 

 

Dog mob incidentの解散について

  

 思えば去年の三月、前のバンド最果テが解散して、その一か月後にスタートしたバンドがDMIでした。

 このバンドはドラムの正光君が中心となって僕を含めた生楽器のメンバーを集め、昔からの友達でもあったDJのMI-NOXを僕が最後に誘って結成されたバンドでもありました。

 

 ここからは、DMI結成当時僕が思っていたことを列挙していこうと思います。

 最果テからDMIを聴いた方や、DMIから初めて僕らの音楽を聴くようになった方に、少しでも背景が伝わればと思います。

 

 

 このバンドを始めた最初にまず掲げた目標が、「とにかくひたすら【上】へ行く」ことだったと記憶しています。

 何をもって【上】とするのか、じゃあ【下】はあんのか、どういうことなんだとも思うのですが、とにかく当時のバンドメンバーと話していた会話には頻繁に【上】というワードが飛び交っていたように思います。

 

 僕自身、最果テが二年の活動を終えて解散してしまい、ほかのメンバーのように県外へ活動拠点をすぐに帰る気にもなれず、「あくまで福井に拠点を置く中でちゃんと勝負ができるバンドがやりたい」というのが当時の僕の思いでした。

 

 もともとは、最果テが解散した直後には、そのままソロをやっていこうということも考えていたんですね。

 そして正直、DMIはあくまでバンドを楽しむという感覚で加入していました。

 この時点ではまだ【上】にいこうという意識ではなかったんですね。

 

 音楽的な話をすると、最果テというバンドは今振り返ればジャンル的にはヴィジュアル系とハードロックとJPOPとエモやポストハードコアの音楽性や精神性を、メンバーそれぞれの感性で極限を目指して自分たちなりに合体させつつ昇華しようとしたバンドだったと思います。

 

 ただ最果テをやっていた二年間で、自分のルーツとしては圧倒的にXJAPANやLUNA SEAなどの九十年代ヴィジュアル系の存在感が強いことを思い知らされ、音楽のチャートやこれから盛り上がりを見せていくポップミュージックの中でそのルーツだけを武器にやっていくには、客観的には時代からかけ離れすぎてしまっているなとも、解散をした2018年の三月は思っていたんですね。

 

 そして最果テの頃は、僕の楽曲や世界観に対するこだわりが今振り返っても尋常ではなく、一曲に三か月か半年間もの時間をかけてメロディやコードやアレンジや歌詞を作っていました。(これは当時のバンドメンバーがいろんな場面で散々ネタにしている僕の当時の奇行の1つですね。)

 最初の頃とか、歌詞がどうしても納得できないLet me goを全部でたらめの英語でライブで歌ってたな…。

 そのこだわりが、今でも最果テの楽曲や歌詞を愛してくれている人たちがいるゆえんだとも思えるのですが、いかんせん職業作曲家やミュージシャンとしてはあまりに不器用すぎるとも思っていました。

 

 それらの前提の上で、僕は最果テの次にやる音楽は「ロックで、ポップで、カジュアルで、流行的であり親しみやすい音が鳴っている」音楽をやりたいと思っていました。

 

 

 でもじゃあソロの音源を作ろう!となったとき、全く1人でステージで演奏する曲のイメージが浮かんでこなかったんですよね。

 やっぱり俺はバンドが好きで音楽にはまっていったんだなあというか、やっぱり頭の中で鳴る音像は「生ドラムで、ベースも弾かれてて、ロックギターで、シンセも鳴ってて」っていう音で。

 当時は確かアリアナグランデをすごく聴いていたんですけど、それを参考にデジタルな音でソロの音源を作ろうにも、頭の中で鳴る音は完全にLinkin parkやBring me the horizonのそれで、ソロの作曲が止まってしまって。

 しかもその時に他にはまったのがRage against the machineだったしな・・・。

 

 そういう状況でDMIじゃあ何をしようかという話を並行して進めていた時に、ギターのかっちゃんが当時すごくテンションを上げてほかのメンバーに力説していたことがあって。

 「やるからには俺らは上に行くんだ」「絶対にやるんだ」と、凄いエネルギーをもって僕らに自分のやりたいことを語ってくれて。

 最果テが終わった時点で、僕の中の確固たる美学というか「絶対にやる。俺は必ず出来る」というような思いやモチベーションはかなり落ち着いてしまって、

 

というより1つ区切りを迎えた時点で、僕自身どこにどう向かえばいいのかわからくなってしまって。

 

 だからかっちゃんのその想いが僕にはとても眩しく、熱いものに思えたんですね。

と同時に懐かしくて「ああ、俺最果テを始めた時こういう想いを持ってバンドをやろうとしてたよな」と、語弊はあるかもしれませんが自分の前の姿を思い出すような感覚になって。

 そうやってかっちゃんの思いを聞いてるうちに、DMIに本気で取り組んでみよう、自分の力を今熱いものを持っている人に使ってもらおうという思いが強くなっていって。

 それから六月の響のホールのロックオンや自主企画へと向かっていきました。

 

 一回落ち着きたい人もいると思うので、続きは分けて書きますね。